今からちょうど100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)9月24日、49歳の漱石は妻の鏡子を相手にこんな話を切り出した。
「実は神戸の寺で修業中の若いお坊さんから手紙がきてね。来月、用があって名古屋まで出かけるついでに、東京見物に来たいと言ってるんだよ」
鏡子は、そうですかと相槌を打ち、漱石は続ける。
「それでね、東京では、できればウチに泊めてもらえないかと言ってるんだ。若い修業中の身では、お金も何も持ってないだろうからな。どうだい? 俺は、おまえさえ承知してくれれば、ぜひ泊めてやりたいと思ってるんだが」
「そりゃ、あなたがそうしたいなら、お部屋の都合くらいはなんとでもなりますよ」
鏡子夫人、おおらかで、どっしりしたものである。
「そうか。それはありがたい。じゃあ、明日にでも手紙でそう言ってやるとしよう」
漱石は上機嫌で頷いた。
このとき漱石の手もとには、神戸祥福寺僧堂で修業している若い禅僧、鬼村元成(きむら・げんじょう)から届いた手紙があった。そこに、漱石がさっき鏡子に話したような内容が記されていた。
いくら漱石が一家の主でも、自宅に迎えた客人を何日か泊めるとなると、鏡子の了承なしに勝手にことは進められない。主婦としての鏡子の確かな存在感がうかがえる。
漱石と鬼村元成との交際の始まりは、2年前の大正3年(1914)4月に溯る。この頃、漱石の『吾輩は猫である』を読んで深く感じるところのあった鬼村元成が、東京朝日新聞社へ漱石宛ての手紙を送ったのである。新聞社から廻送されてきた手紙を読んだ漱石は、すぐに返事を書き、以降、互いに文通が続いていた。
翌年には、鬼村元成の同僚の富沢敬道という禅僧も、この交流に加わった。東京へも、このふたりが一緒にくるということだった。
鏡子の快諾を得た翌日、漱石は鬼村元成へ手紙を書いた。
《来月富沢さんと一所に東京へ御出の由(略)昨日妻に訳を話したら都合出来るといいました。(略)私はまだ毎日午前中は執筆していますので案内をして方々見せて上げる訳に行かないかもしれません。但し午後と夜中は自由ですから御話し相手は出来るでしょう。それから時間と病躯が許すなら一二度は何処かへいっしょに行きましょう。見たい所を考えて御置きなさい》
志を持つ若い人には、実にやさしい漱石先生であった。
■今日の漱石「心の言葉」
修行をして立派な人間になって世間に出なければならない(『道草』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
