今から121 年前の今日、すなわち明治28年(1895)9月23日、28歳の漱石は、松山の上野家の離れ、通称「愚陀仏庵」の2階で目覚めた。
地元の中学校で英語教師をつとめる漱石は、この2階建ての借家の2階を自分の居室として使っていた。ひと月ほど前から、1階は正岡子規のために明け渡していた。
子規はもともと胸に疾患を抱える身で、日清戦争の従軍記者として中国大陸に赴き、帰国途中の船内で激しく喀血をした。一時は命も危ぶまれたが、神戸病院、須磨保養院での入院生活で次第に回復。なおしばし静養するため、故郷の松山に帰省した。
といっても、そこにはすでに子規の家族はいない。子規の父親は、子規4歳のときに病没。残されていた子規の家族(母と妹)は、3年前、長男の子規に呼び寄せられる形で松山を離れ、東京・根岸へ引き移っていた。

松山で漱石が下宿していた「愚陀仏庵」の階下の居室。正岡子規が一時期ここに住んで、盛んに句会を催していた。写真/神奈川近代文学館所蔵
松山に到着した子規は、いったんは親戚である大原恒徳の居宅に荷をといた。が、漱石の誘いを受け、すぐに愚陀仏庵での同居生活に入っていた。子規のもとには、連日のように俳句仲間が集い、愚陀仏庵は大賑わいであった。
余談になるが、当時、この愚陀仏庵に姿を見せる11歳の女の子がいた。大家である上野家の孫娘の頼江であった。漱石も子規も、この娘を可愛がっていた。頼江は、のちに上京して府立第二高等女学校へ進学、医学者の久保猪之吉と結婚した。松山時代の縁故から千駄木の夏目家へも出入りし、『ホトトギス』『明星』といった雑誌を拠点に俳人・歌人としても活躍した。
頼江の夫の久保猪之吉はドイツ留学もした日本の耳鼻咽喉学の第一人者であったが、後年、妻を伴い京都帝大福岡医科大学(九大医学部)に赴任。漱石の依頼によって、喉頭結核に罹患した長塚節の診療を受け持っている。
さて、この日、9月23日は、秋季皇霊祭と呼ばれる祭日だった(秋の彼岸のお中日)。学校も休みで、家々の門口には日の丸の旗も翻っている。
漱石は、子規と連れ立って散歩に出かけた。松山城を仰ぎ、常楽寺、千秋寺などをめぐりながら、俳句をつくった。漱石の句は、たとえばこんなものだった。
《蘭の香や門を出づれば日の御旗》
《見上ぐれば城屹として秋の空》
《鶏頭の黄色は淋し常楽寺》
《黄檗の僧今やなし千秋寺》
《土佐で見ば猶近からん秋の山》
散歩から帰ってしばらくすると、子規の叔母が、まだ小学生の長男におはぎを持たせて、愚陀仏庵に使いに寄越した。その受け取りの書に、子規は「赤六、黄三、黒三」と色分けを記した。おそらく、赤は小豆、黄はきな粉、黒は黒胡麻だったのだろう。大食らいの子規と甘いものに目のない漱石が、3種のおはぎを頬張る姿が目に浮かぶ。
■今日の漱石「心の言葉」
僕は二階に居る、大将は下に居る(談話『正岡子規』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
