今から115 年前の今日、すなわち明治34年(1901)9月22日、ロンドン留学中の34歳の漱石は、クラパム・コモン、ザ・チェイス81番地の下宿の自分の部屋の中で、手紙をしたためていた。
手紙の宛て先は、日本で待つ妻の鏡子。手紙を書きながら、漱石はふと腹に手を当てる。日本を離れてほぼ1年。最近どうも胃が重たい、と感じている。胃にはもともと弱点があったのだが、ロンドンにやってきて食事が変わったせいか、余計に負担がかかっているような気がしていた。だから、漱石は手紙の中でそれを吐露する。
《近頃少々胃弱の気味に候。胃は日本に居る時分より余りよろしからず。当地にてはおもに肉食を致す故、なお閉口致し候》
胃の不調はしばしば精神的なことによってももたらされるから、ひとり異国で神経をすりへらして勉強する生活も、何らかの影響を及ぼしていたようにも思える。
とはいいながら、漱石は留学にも勉強にも、けっして嫌気は感じていなかった。むしろ、旺盛な意欲を持ち続けていた。なにせ漱石は、2年間の英国留学を1年延期してフランスでも勉強していきたいと思い、少し前から文部省に働きかけている。
けれども、文部省からはまったく相手にされなかった。そのことも漱石は手紙に書いていく。
《桜井氏より手紙参り候。その前、桜井氏宛にて留学延期(仏国へ)の件周旋頼み置候ところ、延期は文部省にて一切聞き届けぬ由につき泣寝入に候》
桜井氏とは、熊本五高の桜井房記のことを指しているのだろう。漱石は熊本五高の教授という立場で、文部省から英国留学の辞令を受け取っている。留学決定にあたっては、おそらく、五高からの推薦というようなこともあっただろう。だからこそ、留学期間の延期も、五高を通じて文部省へ働きかけてもらった。漱石が熊本へ赴任した当時は五高の教頭だった桜井房記は、この頃、五高の校長をつとめていた。
一方で、漱石の勉学への意欲は、俗世間的な出世欲とはつながっていない。漱石は鏡子への手紙にこうも綴っている。
《先達(せんだって)御梅さんの手紙には博士になって早く御帰りなさいとあった。博士になるとはだれが申した。博士なんかは馬鹿々々しく、博士なんかを難有(ありがた)がる様ではだめだ。御前はおれの女房だから、その位な見識は持っておらなくてはいけないよ》
鏡子の妹の梅子がなにげなく手紙の中に書いた「博士になって」という言葉に、漱石は反発を見せている。むやみに権威や肩書をありがたがる世間の風潮を、漱石はこの頃から嫌っていた。後年の「博士号辞退」騒動は、なにもその場の思いつきやパフォーマンスなどではなく、若い頃からの首尾一貫した姿勢であることが、この手紙からも確認できる。
ちなみに、漱石が留学生活を送ったこの下宿の斜め向かいに設けられていたロンドン漱石記念館が、この9月28日で閉館になることが、最近、テレビのニュースや新聞記事で報道されている。当初、来年の秋に閉館ということが伝えられていたが、英国のEU離脱による経済的余波などもあって、1年前倒しで閉めることを館長の恒松郁生さんが決断したという。
同館のことは、以前、この連載やサライ本誌の漱石特集の中でも紹介した経緯があり、読者の皆さん方に、ここで改めてお知らせしておきたい。
■今日の漱石「心の言葉」
何も博士になるために生れてきやしまいし(『書簡』明治38年11月9日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
