今から100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)9月21日、49歳の漱石は東京・早稲田南町の自宅、漱石山房で滝田樗陰(たきた・ちょいん)の訪問を受けていた。
樗陰は雑誌『中央公論』の編集主幹で、漱石晩年の木曜会にいつも一番に顔を出していた。この日も木曜日であり、樗陰は例によって正午過ぎに人力車で乗りつけ、漱石もこれを迎え入れたのである。
樗陰は他の門弟たちとは異なる、ある明確な目的を持っていた。それは、漱石に「書」をかいてもらうことだった。
そのために樗陰は、いつも大量の紙や墨、硯、筆洗、毛氈などを抱えて漱石山房にやってくる。これが漱石の妻・鏡子の目には,「太った金太郎さんみたいな恰好」に見えていたという。
部屋に通されると、樗陰は自分で墨をすり、毛氈(もうせん)を敷き、持参の紙を広げて、いっさいの準備をととのえていく。そうしておいて、「さあ、先生お書きください」と、漱石の手をとらんばかりにして筆を動かさせるのだった。
どんな文字を書いてもらいたいかという主題についても、樗陰はその都度はっきりと注文をつけた。ちょっとした墨絵に賛をしてもらう、というようなこともあった。逸早く山房に顔を出すのも、門弟たちがやってくる前に、できるだけこの仕事を進めてしまいたいためだった。
木曜日以外の日にやってこないのは、漱石の仕事の邪魔をしないためで、そこは樗陰なりの節度であったのかもしれない。
他の門弟たちからすると、先生を奪われたようで何やら妬心めいたものも働くし、漱石が唯々諾々と樗陰の言いなりになっているようにも見える。そのため、「先生はおとなし過ぎる」「滝田は横暴だ」といった声が出ることもあった。
が、そこは樗陰も心得たもので、持参の墨や紙は高級品、持ち帰った書は翌週にはすぐに表装してきて箱書きを求めるといった塩梅。漱石もまんざら悪い気はせず、手習いにもなるだろうという考えも働き、ついつい注文に応じてしまうのだった。
この日、漱石は、以前から頼まれていた「帰去来辞」の書き直しに取り組んだ。「帰去来辞」は陶淵明による漢詩。350 字ほどもある全文を書き連ねていくのだから、容易な仕事ではない。紙の長さだけでも5メートル以上に及ぶ大作。漱石は、一文字一文字指図するような樗陰の調子に閉口しながら、書き上げていくのだった。
後年になってみると、樗陰のこの強引な手法が、文壇史に貢献した。われわれはそのお蔭で、「帰去来辞」を含む漱石先生の遺墨に、より多く接する機会を得ているのである。
■今日の漱石「心の言葉」
絵に賛を致し候。不出来ながら御勘弁願上候(『書簡』大正5年8月11日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
