3 夏目漱石 2

今から102 年前の今日、すなわち大正3年(1914)9月20日、47歳の漱石は岩波書店から『心』の単行本を上梓した。東西の朝日新聞紙上に4月20日から110 回にわたって連載した小説を1冊にまとめたものであった。

本の表紙や扉などのデザインも、漱石が自ら手がけた。そのことは、単行本の序文にも書かれていた。

《装幀の事は今迄専門家にばかり依頼していたのだが、今度はふとした動機から自分で遣(や)って見る気になって、箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉(ことごと)く自分で考案して自分で描いた》

とりわけ表紙はユニークだった。中国・周時代の石鼓文の拓本を地紋にして、そこに和装本の題箋のように康熙辞典の「心」(『荀子』)の項を貼り付けたようなデザインとしたのである。

石鼓文の拓本は、熊本五高時代の教え子で外交官として中国へ赴任している橋口貢が送ってくれたもので、漱石は貢にこんな礼状を送っている。

《御恵贈の拓本は頗る珍しく拝見しました。あれは古いのではないでしょうが面白い字で愉快です》(大正3年8月9日付)

単行本『心』は、出版の形式もほとんど自費出版だった。初版の費用は漱石が自ら負担し、版を重ねるにつれて、岩波書店側で償却する形の特殊な契約だった。

というのも、岩波書店を起こしたのは漱石門下の岩波茂雄だったからである。古書店として始めた商売を、岩波は出版社に育てていきたいと思っていた。漱石の『心』がそのスタートに勢いをつけた。岩波に対する漱石のまたとない応援だった。

当代一流の人気作家として、他社からも引き合いがある中で、あえてなんの実績もない岩波書店を版元に選び、しかも費用を自分で捻出した。その後、岩波文庫におさめられたこの名作は、いまも売れ続ける永遠のベストセラーとなっている。

漱石遺愛の紫檀の煙草入れ。漱石は紫檀が好きで、紫檀を使ったさまざまな家具調度、小物を身の回りに置いていた。神奈川近代文学館蔵

漱石遺愛の紫檀の煙草入れ。漱石は紫檀が好きで、紫檀を使ったさまざまな家具調度、小物を身の回りに置いていた。神奈川近代文学館蔵

『心』の刊行以前、商売上の資金のやりくりに困ったときも、岩波茂雄はしばしば夏目家にやってきては金を用立ててもらっていた。

後日、岩波が夏目家に三尺四方ほどの大きさの卓を持参したのは、そうしたもろもろのことへの御礼の意味だった。漱石はこの卓を見て、「なんだ、紫檀じゃないのか」などと、ぶつぶつ小声で文句を言った。

漱石は大の紫檀好きであった。紫檀は重く硬いのに工作しやすく、加工後の狂いも少ないため、昔から家具や細工物の材として重用されてきた。漱石もその光沢や手ざわりを愛し、文机や煙草入れなど、紫檀のものを多く身の回りに置いていたのである。

「紫檀、紫檀」という漱石の呟きに、たまりかねた岩波が、「そんなに先生がお嫌いなら持って帰ります」というと、漱石先生あわてて、「いや、何も持って帰るには及ばんよ」と、すまし顔。

ひと間あって、一同大笑いになった。

■今日の漱石「心の言葉」
ちょうどよく合うね。据(すわ)りがいい。紫檀かい(『虞美人草』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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