3 夏目漱石 2

今から114 年前の明治35年(1902)9月半ば、ロンドンの漱石は来る日も来る日も自転車の稽古をしていた。指導役は、同じクラパム・コモン、ザ・チェイス81番地の下宿にいた犬塚武夫である。

犬塚は旧小倉藩主の長男・小笠原長幹(ながよし)のロンドン留学に傅役(もりやく)として同行してきていた。犬塚は、ひとり下宿の部屋に閉じ籠もるようにして勉学に没頭し、神経をすり減らしている漱石の気鬱を晴らそうと、自転車乗りを勧めたのだった。

だから、東京・根岸で親友の正岡子規が長患いの末に35年の生涯を閉じた9月19日も、漱石はそんなこととは露知らず、乗っては転び、乗っては落ちしながら、自転車乗りの稽古に明け暮れていた。

子規の葬儀は翌々日にとり行なわれ、亡骸は田端の大龍寺へ運ばれて埋葬された。150 人余りの会葬者の中には、夏目家の代理として列席した土屋忠治の姿もあった。

土屋は熊本五高時代の漱石の教え子で、漱石の留守中も鏡子夫人と娘たちが身を寄せている東京・矢来の中根家(鏡子の実家)によく出入りしていた。漱石は留守だし、鏡子は幼い娘をふたり抱えているので、土屋が自ら「自分が代理で行きましょう」と、子規を見送る役割を買って出たのだった。

国際電話もジェット機もない時代。漱石のもとに子規の訃報が届いたのは、それから2か月余りが経過した11月下旬、高浜虚子からの手紙によってだった。虚子は子規の訃を報らせつつ、『ホトトギス』に掲載すべく追悼の文章を求めてきた。

漱石は深夜、アルファベットに占領されたようになった頭の奥から俳想を絞り出し、こんな追悼句を詠んだ。

《筒袖や秋の柩にしたがはず》
《手向くべく線香もなくて暮の秋》
《霧黄なる市に動くや影法師》
《きりぎりすの昔を忍び帰るべし》
《招かざる薄に帰り来る人ぞ》

遠い異国にあって洋服(筒袖)を着ている身とて、友の弔いに参列することも、一本の線香を手向けることもできなかった。

霧たちこめる都市ロンドンで動く影法師とは、いまは亡き親友の幻影か、それとも友を失い脱け殻のようになった漱石自身の姿か。そしていま、英国留学を終えようとしている自分は、「きりぎりす」や「薄」について綴った『七草集』の昔をしのびながら、もはや招き入れてくれる人もない故国に帰っていこうというのである。

あるいはそこには、野球好きだった友への、「せめて魂はきりぎりすの如くグラウンドを駆け回った昔を偲び、故郷へ帰りたまえ」という呼びかけの意もこめられていたのか。

2年間の英国留学に赴く前から、互いに二度と生きて会うことはできないかもしれないという思いを抱いてはいた。だが、それが現実となってみると、受け止めきれないほどの哀しみが漱石の胸にこみ上げていた。

■今日の漱石「心の言葉」
胸に花を挿して自転車へ乗りて御目にかける位は何でもなく候(『書簡』明治35年12月1日より)

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

夏目漱石ありし日々の面白エピソードを毎日連載!「日めくり漱石」記事一覧へ

 

ランキング

サライ最新号
2023年
4月号

サライ最新号

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

小学館百貨店Online Store

通販別冊
通販別冊

心に響き長く愛せるモノだけを厳選した通販メディア

花人日和(かじんびより)

75歳からの生き方ノート

おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店
おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店