3 夏目漱石 2

今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)9月18日、伊豆・修善寺は秋の青空が高く澄み切っていた。

漱石は、朝めざめると、なんだか体力がかなり回復してきたような気分になっていた。大量の吐血をして意識不明の状態に陥ってから、25日目のことであった。

朝食はソーダ・ビスケット1枚だったが、昼は上半身を起こして半椀の粥を食べた。吐血以来はじめて口にする粥だったが、食べているうちになんだかひどく疲れてしまい、粥のうまさも半減するほど。

人間、ふだんは当たり前のように飲み食いをしているが、この飲食という動作自体も、かなりの体力を必要とする。そのことを改めて確認し、驚く漱石だった。

午後、陸軍一等軍医の矢島柳太郎という人物が、見舞いに訪れた。軍医は、

「仕事があって伊東まできたので、軍医総監の命を受けて、お見舞いに伺わせていただきました」

と挨拶する。軍医総監とは、すなわち、鴎外森林太郎であった。

漱石と鴎外は、子規庵での句会や何かの宴席で、数度顔を合わせた他は、著書を献呈し合っているくらいで、ほとんど交流らしい交流はなかった。それでも、互いを尊敬し常に意識していた。

年齢は鴎外の方が5歳年上。小説家としてのデビューも鴎外の方が早かったが、鴎外の小説『青年』は明らかに漱石の『三四郎』に触発されて書かれている。

陸軍軍医総監にまでのぼりつめた鴎外が、最後の最後、遺言に《余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス》と記したのも、文部省から与えられた博士号を辞退し「ただの夏目某で生きたい」と個の気概を貫いた漱石の生き方が、なんらかの影響を与えたように思えてならない。

それにしても、配下のものに出張ついでに見舞いさせる辺りは、鴎外の気遣いの見事さだろう。

いきなり鴎外本人があらわれたりしたら、病人は驚くし相手をするのに疲れてしまう。近くで仕事の用事のある部下を、なにげなく、見舞いに立ち寄らせる。使いの者だから長居もせず、さっと帰る。この程度が実に塩梅がよく、病人にも静かな力づけとなったはずである。

この日の夕食には、漱石は、オートミール100 グラム、スープ100 グラム、玉子豆腐をあんかけにしたもの100 グラムを食べた。医師も漱石の病状を見ながら、少しずつ食事の内容を調節している。

そんな夫の様子を見て体の復調を感じながら、鏡子夫人は宿屋のものに「お月見がしたいから」と言って、栗を持ってきてもらった。満月は1日過ぎ十六夜の月であったが、少しでも夫の気分を和ませたいと考えていた。

■今日の漱石「心の言葉」
病んで夢む天の川より出水かな(『思い出す事など』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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