今から110 年前の今日、すなわち明治39年(1906)9月16日、39歳の漱石は悲しみに沈み胸を痛めていた。妻・鏡子の父親である中根重一が、腎臓炎を悪化させ病没してしまったのである。
鏡子は、父が倒れたとの連絡を受け、1週間ほど前から麹町(千代田区三番町)の実家に泊まり込み、看病を続けていた。漱石は2日前にそんな鏡子宛てに、
《嘸(さぞ)かし御心配の事と存じ候。いつ迄もそちらに御逗留の上御看病可然(しかるべく)と存候。(略)金銭上の事につき御相談も有之(これあり)候わば遠慮なく御申聞(おもうしきかせ)相成度(あいなりたく)候。あるものはある丈(だけ)御用立可申(ごようだてもうすべく)候》
と、手紙を書き送っていた。「こっちのことはいいからずっと父上のそばについて看病してあげなさい。金銭上の援助の必要があれば、できるだけのことはすべてする」というわけである。
中根重一は一時は貴族院書記官長まで務めていたが、政争のあおりでその職を辞したあと、相場で失敗して財産を失い困窮生活を送っていた。倒れる前は、安田保善社(安田生命の前身)に勤務していたが、亡くなってみると葬儀の費用にも事欠くありさまだったという。
一部の費用を漱石が引き受ける形で、中根重一の葬儀が行なわれたのは、この4日後の9月20日だった。漱石は死亡広告にも名前を連ねたが、葬儀には参列しなかった。
以前、夫婦の間で離縁騒ぎでガタガタしたときに「鏡子方の親類じゅうに起こったことには一切不義理をする」という盟約が交わされていた。どこか売り言葉に買い言葉のようなやりとりの中でなされた盟約だったが、漱石も鏡子も無理にでもそれを守り抜いた恰好だった。
先に紹介した鏡子宛ての手紙の思いやり深い文面とは対照的とも映る漱石の行動で、ふたりとも相当な意地っ張りなのである。
ふと、漱石の長女の筆子が書き残したこんな一文も思い起こされる。
《こういう処も母の悪妻と呼ばれる所以なのでしょうが、父がスキヤキを美味しいと洩らしでもしようものなら、それこそ、十日でも二十日でも、あきもせずスキヤキを続けます。父もさる者で、こいつ、いつ迄続ける気だ、こっちもこうなったら意地だ、いつ迄続けやがるか見とどけてやれ、というわけで、素知らぬ顔してスキヤキ責めに耐えているようでした。今から考えますと大変ユーモラスとも思えるのですけれど、お互いこんな意地の張り合いを続けていたのです》(『夏目漱石の「猫」の娘』)
とはいいながら、漱石先生、ただ片意地はって岳父の葬儀を欠席するだけで終わらせるようなことはしなかった。
穴埋めに、遺族のため真情のこもった長文の手紙を書いた。これを読んだ鏡子の弟妹は、お義理だけの参列などより、よほど深く胸を打たれたという。
■今日の漱石「心の言葉」
凡眼は皆形を見て心を見ざる(『吾輩は猫である』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
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休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
