3 夏目漱石 2

今から108 年前の今日、すなわち明治41年(1908)9月13日、漱石はひとつの生命の終焉と向き合っていた。夏目家に飼われていた猫が死亡したのである。『吾輩は猫である』のモデルとされる猫だった。

思えば、この猫が夏目邸に迷い込んだのは、4年前の夏の初め。猫嫌いの妻の鏡子は、すぐに外につまみ出した。ところが、何度つまみ出してもいつの間にか戻ってきて、飯櫃の上にちゃっかり座り込んでいたりする。ある日とうとう漱石がこの猫の存在に気づき、

「そんなに入ってくるんなら置いてやればいいじゃないか」

とお墨付きを与えた。

さらに猫に幸いしたのは、鏡子のもとに出入りしていた按摩の婆さんの一言だった。婆さんは、全身黒ずんだ中に虎斑のあるその毛並みをつくづくと眺め、「これは珍しい福猫ですよ」と呟いた。この時から鏡子の猫に対する態度が一変した。「福猫」ならもっと大事にしなければ、というわけだった。

そんなわけで、最後まで名前はつけてもらえなかったものの、新聞を読んでいる漱石の背中に乗ったり、子供たちの蒲団にもぐりこんだりしながら、可愛がられて暮らし、天寿を全うした。

その名前にしても、改めて振り返れば、迷い込んだ頃からずっと夏目家の人たちは「ネコ」と呼び続けており、それがそのまま名前のように馴染んでしまったということであったのかもしれない。

猫の遺骸は、木箱に入れて北側の裏庭に埋められた。

「何か書いてやってください」

鏡子にそう求められ、漱石は白木の角材に「猫の墓」と書き裏面に一句をしたためた。

《此(こ)の下に稲妻起る宵あらん》

暗闇にも光る猫の目を稲妻にたとえたのか、あるいは小説中の「吾輩」の如く、地下に眠った猫が人間社会に向かって雷鳴のような警句を発することもあろうとの意をこめたのか。いずれにしろ、これが猫の墓標となった。

以降、祥月命日がくると、鏡子はこの墓標の前に、鮭の切身一片と鰹節一椀を供えたという。

翌14日、漱石は門弟や友人たちに向けて、次のような文面の葉書を書いた。

《辱知猫義久々病気のところ療養相叶わず昨夜いつの間にか裏の物置のヘッツイの上にて逝去致候。埋葬の義は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但主人「三四郎」執筆中につき御会葬には及び申さず候。以上》

葉書の周囲には墨で黒枠をつけた。数え42歳(満41歳)、男の厄年を迎えている漱石先生の哀悼の思いが、そこに塗り込められていた。

■今日の漱石「心の言葉」
墓標の左右に硝子の罎(びん)を二つ活けて、萩の花をたくさん挿した(『永日小品』より)

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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