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3 夏目漱石 2

今から107 年前の今日、すなわち明治42年(1909)9月11日、中国大陸を旅行中の42歳の漱石は、朝、宿泊先の旅順新市街の大和ホテルを出て二〇三高地へ赴いた。東北帝国大学教授で現地の畜産事情の調査にきていた橋本左五郎と、満鉄理事の田中清次郎が一緒だった。

二〇三高地は、5年前に終結した日露戦争で旅順要塞攻防をめぐって激戦の舞台となり、乃木希典大将率いる日本軍から1万6936人の死傷者(うち戦死5052名)、ロシア軍から4576人の死傷者を出した場所である。

こうして数字の合算で示される戦死者、負傷者のひとりひとりに、固有の人生があり、家族があることに、改めて思いを馳せる。

案内に立った男は、兵士として旅順攻撃に加わった市川という人物で、

「作戦がはじまった6月から旅順陥落の12月まで、屋根の下に寝たことは一度もありませんでした。あるときは水のたまった溝の中に腰から下を濡らして、何時間でも唇の色を変えて竦んでいました。食事は鉄砲を打たない時を見計らって、いつでも構わず口に運ぶんです。その食事さえ運搬されてこないこともありました」

と、苦しい体験の一端を語るのだった。

白玉山では、納骨堂も拝んだ。自身でも漢詩をつくる漱石の頭の中には、もしかすると、辛くも凱旋将軍となった乃木希典が詠んだという、こんな七言絶句の漢詩が浮かんでいたかもしれない。

《皇師百万強虜を制す
野戦攻城屍(しかばね)山を作(な)す
愧(は)ず我(われ)何の顔(かんばせ)あって父老(ふろう)を看(まみえ)ん
凱歌今日幾人か還(かえ)る》

乃木は、多くの将兵を死なせた責任と悲哀を、詩人的な悲愴美とともに背負っていた。息子が二〇三高地の激戦の中で落命したのを部下から聞かされた時、乃木は、「よく死んでくれた。これで世間に申し訳が立つ。よく死んでくれた」と口にした。東京の自邸を守る乃木の妻・静子も、息子の戦死を告げる軍の使者に対して同様の返答をしたという。

母が子どもの死を悲しむことも許されない。戦争の悲惨の一面であろう。

のちに小説『心』の中で、漱石は、明治の終焉(明治天皇の崩御)に殉死を遂げた乃木夫妻の姿を、素材のひとつとして取り入れている。

■今日の漱石「心の言葉」
近世の軍略に於て、攻城は至難なるものの一として数えらる(『趣味の遺伝』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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