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3 夏目漱石 2
今から108 年前の今日、すなわち明治41年(1908)9月10日は木曜日で、門弟や来客が東京・早稲田南町の漱石山房に集う、いわゆる木曜会の日だった。毎日のように訪問客があって相手をしていると、とてもではないが仕事にならない。そこで漱石は毎週木曜日を面会日と定め、他の曜日は原則として面会を断った。一方で木曜日の午後は、フランスのサロンのような知的で明るい空気が漱石山房にあふれることとなったのである。

この日、真っ先に午前中から漱石の前に顔を見せたのは、門下生の小宮豊隆だった。豊隆は在籍している東京帝国大学の夏休みを利用して、去る7月25日に東京を離れ、郷里の福岡へ帰っていた。9月2日に福岡を出立、途中、広島の尾道や高知の高松により、この日、新橋停車場に到着。その足で直接、漱石のもとを訪ねてきたのだった。

帰京の列車の中で、豊隆は、新聞連載がはじまったばかりの漱石の小説『三四郎』を読んでいた。物語の主人公・小川三四郎は、九州の田舎から上京し、都会の文物や人心にカルチャー・ショックを受けながら、東京帝国大学に通う学生。豊隆はなんだか自分のことが書いてあるようで、この先どうなるのかとドキドキしていた。そんな浮き立つ気持ちもあって、新橋に着くと自分の下宿にも寄らず、停車場からまっすぐ早稲田南町へ向かったのである。

森田草平が自作小説の草稿の書き出し、20枚ほどを持参し、皆の前で朗読したのも、この日の木曜会の席上だった。草平は、半年前に平塚明子(のちに女性運動家として活躍する平塚らいてう)との間に心中未遂事件を起こしていた。今そのことを下敷きにした小説を書こうとしていた。

事件後の草平は、社会から冷視され一時精神的に死んだような状態に陥っていた。草平と明子はもとをたどれば、女性向けの文学講座「閨秀文学会」の講師(草平)と生徒(明子)として知り合った。まもなく、明子が家出し草平とともに出奔。数日後、ふたりの姿はことのなされないうちに塩原で発見され、明子は家族に連れ戻された。

事件は新聞紙上にも報じられ、すでに他の女性との間に子供もいた草平には世間の風当たりが非常に強かった。行き場を失った草平は、漱石の庇護に頼る以外になく、40日余り夏目家にかくまわれるように身を寄せていた。

やがて、漱石との対話の中で草平は、「書く」ことを決意した。「書く」ことで立ち直りのきっかけを掴みたいと思った。漱石は冷静な態度でこう賛同し、背中を押した。

「そりゃ、書くがいい。書くことは君にも許されるだろう。書く外に、今後君が生きていく道はないのだからね」

そうした漱石の後押しを得て、草平が書き始めた草稿。だが、その出来栄えは、あまり芳しいものとは言えなかった。おそらく、自分自身というものが、過剰に前面に出ていたのではなかったろうか。

朗読を聞き終えた他の門弟たちは、しばし、押し黙っている。やがて漱石が口を開き、どういう点がよくないか、どう直していくべきか、ていねいにアドバイスを与えた。この作品が漱石の計らいで、小説『煤煙』として朝日新聞紙上に連載されるのは、この翌年の1月1日からである。

■今日の漱石「心の言葉」
好い小説はみんな無私です(『書簡』大正5年11月6日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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