今から116 年前の今日、すなわち明治33年(1900)9月9日、33歳の漱石は洋上にいた。文部省派遣の留学生としてイギリスへ向かうべく、昨日、横浜埠頭から船に乗っていたのである。
午前10時30分頃、漱石を乗せたそのドイツ汽船プロイセン号が神戸港に投錨した。漱石は小汽艇に乗り替えて埠頭へ向かった。大型客船を直接に横づけできるだけの港湾設備が、当時の神戸には整っていなかったのである。
漱石の妻・鏡子の妹の時子が、建築家の鈴木禎次と結婚して、このころ大阪に住んでいた。時子と禎次は、漱石を見送るため神戸にきていた。が、船の到着の時間が当初の予定から遅れてしまったため、残念ながら禎次とは会うことができなかった。
それでも、時子が餞別のために用意した万年筆だけは、漱石に手渡された。当時、万年筆はとても高価な舶来品で、漱石はこれを大切に上着の胸ポケットにしまって船旅を続けたのだった。
この大切な万年筆が、思わぬことで壊れてしまうのは、この数週間後のことである。航海途中のエデンから出した、10月8日付、鏡子宛ての手紙の中で、漱石は時子への申し訳なさと無念の思いを告白している。
《時さんの呉れた万年筆は船中にて鉄棒へツカマッて器械体操をなしたる為め打ち壊し申候 洵(まこと)に申訳無之(もうしわけこれなく)御序(おついで)の節よろしく御伝可被下(おつたえくださるべく)候》

漱石が愛用していた付ペン。インクをつけては何文字か書き、またインクをつける。漱石が万年筆を購入して使いはじめるのは40歳の頃である。神奈川近代文学館所蔵
漱石は学生時代、仲間から「器械体操の名人」といわれていた。船中の「鉄棒」が、運動用に設営されていたものか、甲板などに手摺りとして設置されていたものか定かではないが、いずれにしろ漱石はかなりの激しい動きで、鉄棒を使って器械体操を敢行し、その結果、ポケットの万年筆をへし折ってしまっているのである。
となると、ひょっとして、漱石先生、運動用の鉄棒で、蹴上がりから大車輪くらいの大技に挑んでいたのかもしれない。けっして単なる妄想ではない。時は少し隔たるが、『用心棒日月抄』『三屋清左衛門残日録』『蝉しぐれ』などの作品で知られる時代小説家の藤沢周平も、若いころは鉄棒が得意で大車輪でぐるぐる回っていたという。
鉄棒につかまって大車輪する漱石先生、想像するだけで、なんだか楽しい。
へし折ってしまった万年筆の代わりは、限られた留学費用の中では買い直せるはずもなく、留学中の漱石は、ペン先にインクをつけて何文字か書いてはまたインクをつける、いわゆる「付ペン」を使うことになる。帰国後もしばらく同じ状態が続き、ようやく万年筆を購入して使いはじめるのは、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』などを発表し終え、作家として脂がのってきた明治40年(1907)過ぎからのことである。
■今日の漱石「心の言葉」
筆を執る人が万年筆を解しなければ済まない時期が来るのはもう遠い事ではなかろう(『余と万年筆』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
