今から116 年前の今日、すなわち明治33年(1900)9月8日、33歳の漱石は早朝の新橋停車場に立っていた。漱石の横には、芳賀矢一、藤代禎輔もいる。3人とも大きなトランクを抱えている。彼らはこれから午前5時45分発の汽車で横浜に向かい、そこから船に乗り、はるかヨーロッパを目指す。
漱石先生、英国留学への出発であった。
留学を前にした7月中旬、漱石は身支度を整えるため、勤務していた熊本を離れ、家族とともに上京していた。漱石が故国を留守にする間は、身重の妻・鏡子と長女の筆子は、鏡子の実家の中根家(東京・矢来)に身を寄せることにしていた。この頃、中根の家に不幸などもあって大変だったことが、鏡子の回想録『漱石の思い出』から読みとれる。
《この四月私の祖父が亡くなり、父もその後間もなく官職をやめて、矢来の宅に引き籠もっておりました。ちょうど祖父のいた離れが空いたわけなので、洋行の留守中そこを借りていることにして、夏じゅうはともかく皆が大磯へ海水浴に出かけたので、私どもで留守を預かっていたことです。
すると八月の中旬になって、私の妹が大磯で赤痢を病んで亡くなり、続いて母も赤痢をやって一時は大騒ぎをやりましたが、それでも夏目が出立する時には、いい按排に母も辛うじてではありましたが、玄関まで見送れるようになってくれました。
私たちは横浜まで見送りました。プロイセン号という外国船で、日本人の客といっては、芳賀さん、藤代さん、それに夏目の三人でした。それは九月八日のことでした》
横浜埠頭から漱石らが乗り込んだプロイセン号(3278トン)はドイツ汽船。それなのに、出航に当たって奏されたのは、フランス国家の「ラ・マルセイエーズ」。そして、いくつ
かの寄港地を経て、最終の行き先はイタリアのジェノバ。なんとも国際色に富んでいた。
港には、漱石を見送るため、鏡子の他、門弟の寺田寅彦、学生時代からの友人の狩野亨吉などがきていた。正岡子規と高浜虚子からは、こんな送別の句がすでに届いていた。
《秋の雨荷物ぬらすな風引くな》
《二つある花野の道のわかれかな》
芳賀矢一や藤代禎輔らが、威勢よく帽子を振って見送りの人々に挨拶をしているのと対照的に、漱石は少し離れた舷側にもたれて、身動きもせず波止場をじっと見下ろしていた。そんな師・漱石の姿を、寅彦は印象深く胸の中にとどめた。それは2日前、自分に寄越した葉書にしたためられていた次のような一句が、そのまま当てはまるような情景に思えているのだった。
《秋風の一人をふくや海の上》
同じ句をしたためた短冊は、漱石の留守宅(中根家の離れ)にも置かれていた。
まもなく到来する、漱石先生のロンドンでの孤独な勉強の日々をも予見するような一句であったのかもしれない。
遠州沖(静岡沖)を航行する船が揺れて船酔いし、漱石はこの日、夕飯を摂ることができなかった。
■今日の漱石「心の言葉」
船酔いにて大閉口に候(『書簡』明治33年9月19日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
