今から109 年前の今日、すなわち明治40年(1907)9月7日、40歳の漱石は、書斎の机の上に載せておいたニッケルの時計がなくなっているのに気がついた。同じく机の上に載せておいた、ハサミと小刀も見当たらない。深夜、家の者が寝静まっている間に、コソ泥が入ったらしかった。他に、これといって盗まれたものもない様子。
「随分、安直な泥棒だ」
漱石先生、そんなふうに呟くのだった。
夏目家は、熊本での新婚時代を皮切りに何度か泥棒に入られている。
妻・鏡子の回想録『漱石の思い出』によれば、熊本ではちょっとしたスキに鏡子の手文庫を盗まれた。
「何が入っていたんだ」と漱石に問われ、鏡子は「手習いのもの一式です」と答える。漱石は、「いまごろ泥棒がまずい字にあきれているだろう」と笑っている。ところが、その中には手習いの手本や紙やらの他に、鏡子がやりくりしてこっそり貯めた20円ばかりのヘソクリも入れてあった。鏡子は最初、漱石には言わないつもりでいたが、口惜しい気持ちの持って行き場がなく、とうとう打ち明けた。
漱石は鏡子のその告白を聞いても、
「亭主に隠して貯金なんぞするからさ」
と、一笑に付し、大して苦にもしなかったという。達観しているというべきか。
そんなふかだから、漱石は今度もさして動揺を見せない。そんな騒ぎより、ここのところの気がかりは、住まいのことだった。
漱石は、昨年暮れに本郷区(現・文京区)千駄木の貸家から今の本郷区西片町の貸家に引っ越しをしたばかり。ところが、はじめ27円だった家賃を、家主がたちまち30円に引き上げ、さらに35円に値上げしようとしている。『吾輩は猫である』の文壇デビューのあと、『坊っちゃん』『草枕』『虞美人草』と、漱石の文名がいよいよ上がっているのを見て、さぞや懐も潤っているものと勝手に想像し、そこに乗じようという魂胆らしかった。
こういう姑息なやり方は、漱石のもっとも嫌うところだった。漱石は周囲の知り合いに声をかけ、新たな引っ越し先を模索しはじめていた。
この日も、英文学者で友人の畔柳芥舟(都太郎)宛ての手紙に、《四方の檄を飛ばして貸家を捜がしている》と訴え、こんなふうに書き添えた。
《体重は十二貫半から半の半に減じた。翌日から急に十三貫に増して昨日は十三・一あった。この様子で見ると体重と家賃は正比例するものと見て差支ない》
家主のやり口に憤慨しながらも、自身の体重を引き合いに出して冗談めかしているのが漱石らしい。
ちなみに、1貫は3・75キログラムだから、このころの漱石先生の体重は49キロちょっと。身長はおよそ159 センチだったから、中肉中背、当時の日本人男子の平均値とほぼ同程度だった。
■今日の漱石「心の言葉」
家賃を無暗(むやみ)上げるのが、業腹だというので、こっちから立退きを宣告した(『三四郎』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
