3 夏目漱石 2
今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)9月6日、伊豆・修善寺で病気療養中の43歳の漱石は、新案箱便器に腰かけていた。周囲から、看護婦ふたりと、門下生の坂本雪鳥、小宮豊隆、安倍能成、計5人がかりで漱石をサポートする。そうやってどうにか、少量の便を排泄した。

8月24日の大吐血で死にそこなって以来、初めての便通だった。容態は、薄皮をはぐように少しずつ快方に向かっていた。

漱石はその後、看護婦にアルコールを湿したガーゼで背中を拭いてもらい、寝間着を着替えた。寝床も藁蒲団に替えてもらった。それやこれやで、床に横になると、なんとなくさっぱりして以前よりも寝心地がよかった。

午後、漱石に付き添っていた妻の鏡子は、見舞いにきてそのまま手伝いに当たっている小宮豊隆に誘われ、旅館を出て周辺を散歩した。大吐血以来、ずっと気持ちを張りつめている鏡子にも、緊張をときほぐす時間があった方がいい。豊隆がそう判断したのだろうか。あるいは、もしかするとこれは、漱石が鏡子を気遣って小宮豊隆に頼んだことなのかもしれなかった。

漱石はこの2日前にも、門弟の阿部次郎が山形から遠路見舞いに駆けつけてくれたことを鏡子から知らされると、感謝の意を示し、「酒でも飲ましてやってくれ」と鏡子に言いつけている。

少しずつ体の具合が快方へと向かう中で、病床から自然とそうした気遣いができるようになりつつある漱石だった。

散歩の途中、修禅寺に立ち寄ると、占い好きの鏡子はいつもの癖で、ふと御神籤(おみくじ)を引きたくなった。夫の容態は安定して、少しずつだが着実に回復してきている様子だし、外の空気を吸って、鏡子はむしろ軽やかなくらいの気持ちになっていた。

ところが、引き当てた御神籤は「凶」だった。鏡子はそれを見た途端、暗い気持ちになり、急にふさぎこんでしまった。気にする人には、こういうのは結構、応えるもの。いかにもタイミングが悪かった。

豊隆も一瞬、動揺したが、一緒にふさぎこんでしまうわけにはいかない。

「奥さん、大丈夫ですよ。そんなの、迷信ですから」

わざとからかうような調子でそんなことを言って、無理にも鏡子を、そして自分自身を、安心させ励まそうとする。もちろん、漱石には「凶」のことは内緒だった。

妻と門弟がそんなことに気を揉んでいるとも知らず、漱石は静かに横になっている。傍らには、病人の心を少しでも慰むべく、小宮豊隆と阿部次郎が近所で摘んできた草花が鏡子の手によって飾られている。

■今日の漱石「心の言葉」
天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った(『思い出す事など』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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