3 夏目漱石 2
今から110 年前の今日、すなわち明治39年(1906)9月5日、39歳の漱石のもとに、門下生の中川芳太郎がやってきていた。中川芳太郎は愛知県の出身。この年、東京帝国大学の英文科を卒業したばかりだった。漱石は、この翌年春まで東京帝国大学英文科講師として教壇に立っていたから、大学での直接の教え子のひとりである。

この頃、漱石は、大学での英文学概説の講義ノートをもとにして『文学論』の草稿をまとめるという仕事を、この人、中川芳太郎に任せていた。

『文学論』の草稿(第2冊)。漱石の大学での講義をもとに中川芳太郎がまとめ、そこに漱石自身が朱筆で修正を加えていった。神奈川近代文学館所蔵

『文学論』の草稿(第2冊)。漱石の大学での講義をもとに中川芳太郎がまとめ、そこに漱石自身が朱筆で修正を加えていった。神奈川近代文学館所蔵

芳太郎は在学中、英文科内でもとびきりの秀才で、その卒論の出来栄えは抜群。漱石自身、芳太郎宛ての手紙(明治39年5月19日付)の中で、

《二三日前君の論文を読みたり。通篇自家の英語にてかきこなしてある御手際(おてぎわ)はえらいもの也。英文としてあれ丈(だけ)にかき上げられれば結構なり。感服の至りである》

と称賛したほどだった。

『吾輩は猫である』の発行元である大倉書店から、『文学論』を刊行したいという話があったとき、漱石が中川芳太郎に手伝ってもらおうと思ったのは、「彼ならば」という感触を得ていたからに他ならない。漱石は当初、門下生・野間真綱にも、

「中川の文は荘重で文学論には持ってこいの文体だよ」

と語っていた。

漱石はこの日、芳太郎に、自身の愛用していたフロックコートをプレゼントした。古くなってきてはいたが、ロンドンで誂えた優良品。草稿の整理で骨折っている芳太郎に対する、感謝と励ましの意を込めたものだった。

漱石はロンドンでフロックコートを仕立てた際、東京で待つ妻の鏡子にこんな手紙を書き送っている。

《当地の品物は高き代わりに皆丈夫向に候。中にも男子の洋服は「パリス」よりも倫敦がよろしき由、なるほど結構に候。小生も当地にて「フロック」と燕尾服を作り候》(明治34年1月22日付)

滞英日記の記述とも考え合わせると、これは大英博物館前のオーダーメイドのテーラー「プリチェット」で誂えたものだったと思われる。それを門下生にぽんとプレゼントしてしまうあたりが、漱石の気前のよさであり、モノに対する恬淡さであったろう。

「ちょっと着てみたまえ」

漱石がそう言って、そのフロックコートを中川芳太郎に着せてみると、思った以上によく似合う。芳太郎も感謝感激し、フロックコートをていねいに畳んで風呂敷に大事に包んで持ち帰った。

『文学論』の刊行がなったのは明治40年(1907)5月。芳太郎の整理した草稿への、漱石による修正・加筆が後半に進むに従って次第に多くなり、最後はまったく新規に原稿を書き起こすようなことにもなったため、発行時期は予定よりだいぶ遅れてしまった。また、芳太郎は校正実務が苦手だったらしく、初版本には誤植が多く、漱石先生のお叱りを受ける羽目となった。人間には誰しも、得手不得手があるものだ。

ちなみに、芳太郎はその後、明治41年(1908)3月に名古屋に設立された第八高等学校の教授となっている。

■今日の漱石「心の言葉」
欲も得も要らない(『行人』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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