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3 夏目漱石 2
今から101 年前の今日、すなわち大正4年(1915)9月4日、48歳の漱石は門弟の内田百閒の家を訪れた。場所は小石川区の高田老松町43番地。以前、漱石の友人で画家の津田青楓が住んでいた家だった。

百閒はこの前年に東京帝国大学の独文科を卒業。この頃は、春陽堂から刊行する漱石の著書、縮刷版『思ひ出す事など』や縮刷版『三四郎』の校正の仕事の手伝いなどをしていた。陸軍士官学校でドイツ語を教えるようになるのは、この翌年のことだ。

玄関から上がり案内を乞うて家の内を見て歩きながら、漱石は驚くとともに、ちょっと渋い顔になった。床の間には、『草枕』冒頭の一節を書いた軸がある。

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、と云ふ草枕の冒頭の句を望まれて、漱石」

壁には、画仙紙半折ぐらいの大きさの洋紙に描かれた和洋折衷の画。北側の窓の長押しには「潮来天地青」という書の額がかかる。そのいずれもが、漱石本人の筆になるものであった。

「津田さんの言っていた通りだ」

漱石は心のうちで呟いた。

漱石はついさっきまで、津田青楓の引っ越し先である同じ町内(高田老松町)37番地の家を訪問していた。そこで、雑談中に、

「内田くんが、あなたの書画を何枚も集めて軸や額にして自宅に飾っている。なかなか大変な漱石ファンだ」

といった話を聞かされ、実地見聞に及んだわけだった。

渋い顔になったのは、自分を慕う百閒に対してのものではない。飾られている書画の出来栄えが、自分ながらにひどく拙劣に見えたからだった。とりわけ、画はいけない。描きはじめた頃の手習いのひとつで、真ん中辺りに描いた大きな岩はなんだか柔らかそうで、大きな餅のようにも見え、一見した津田青楓が「女性のお尻ではないか」と呟いたという曰(いわ)く付きの代物だった。

漱石は数日間悶々とした末、とうとう百閒に手紙を書いた。

《拝啓 先達は失礼 あの時見た懸物と額のまづいにはあきれました 何うかして書き直すか破りすてたいと思いますが、君も銭をかけて表装したものだから只破る訳に行くまいから不得已(やむをえず)書き直しましょう(略)寸法を(着物の寸法をはかる物指で)はかって教へてくれたまえ 以上》

百閒は驚き慌て、漱石に見逃してくれるよう懇願した。が、無駄だった。

漱石先生、門下生が自分の拙劣な書画をあがめるように飾っていることを、どうしても許容できなかったのである。

後年、名エッセイストとなった百閒は、当時を回想してこんなふうに書く。

《代りに描いて貰った額は非常にいい出来で、今でも私の手許に残っているが、しかし餅の様な岩の絵や、草枕の文句の軸の事を思い出すと残念である。又しかし考えて見ると、それから二十何年の間に、私はいろいろな目に会って、何度も差押えを受けたり、身の切られる様な思いのする大事な物も手離さなければならぬ様な破目に陥ったので、(略)先生が人に見られるのがいやだと思ったそういう書や画が、私の不始末から、見も知らぬ人の手に渡る様な事があったら、誠に申し訳ない。矢っ張り先生のいう通りにして、先生の手で破かせてよかったと、今ではそう思っている》(『私の「漱石」と「龍之介」』)

■今日の漱石「心の言葉」
長命致せばもっとうまいものを記念としてあとへ置いていってあげる(『書簡』明治45年5月27日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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