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3 夏目漱石 2
今から116 年前の今日、すなわち明治33年(1900)9月1日、33歳の漱石は東京・牛込区矢来町(現・新宿区矢来町)の中根家(妻・鏡子の実家)に鏡子と長女の筆子を残して、横浜へと出かけた。漱石は、第1回文部省派遣の給費留学生として近くイギリスへ出発する身だった。横浜行きは、渡欧する船の切符を購入するためであった。

文部省派遣の留学生として、他にも、学生時代からの友人である藤代禎輔と芳賀矢一が選ばれていた。藤代禎輔は素人の号を持つドイツ文学者。芳賀矢一は国文学者だが、留学して文献学を学ぼうとしていた。両人の留学先はドイツだったが、ヨーロッパ大陸までは漱石も同じ船で渡航することになっていた。横浜の汽船会社へも、3人で落ち合って向かったのだった。

漱石たちは、ちょうど1週間後の9月8日に横浜港を出航するドイツ汽船プロイセン号の切符を買い求めた。どうせ留学するのだから、船も日本船でなく外国船を利用した方がいいと考えたのである。切符を買い求めた後は、停車楼という西洋料理屋で昼食をとることにした。

いよいよ目前に迫った洋行を前にして、ナイフとフォークを使って西洋料理を平らげながら、漱石も友人ふたりも、大きな期待と少しばかりの不安に胸を高鳴らせていく。空は気持ちよく晴れ上がり、穏やかな一日だった。

ちなみに、漱石が高浜虚子を誘って、西洋料理店へ行ったのも、この頃であった。虚子は皿の上の鶏料理を前にして、骨をつまんでしゃぶりつく漱石を見て、思わず、

「鶏はそんなふうにして食べるものなんですか?」

と問いかけた。漱石は、

「西洋では鶏は手で食べていいことになっているんだよ」

と、諭すような口調で答えた。

洋行は、この頃の知識人たちにとって、ひとつの憧れ。漱石と虚子も、かつて松山から宮島へ向かう船の中で、そんな憧れを語り合ったことがあった。

西洋式のテーブルマナーをひと通り心得ておくことは、当時、留学前の準備として必須のことであった。ピカソやモディリアニとともに20世紀前半のパリ画壇で活躍した画家の藤田嗣治も、大正2年(1913)の渡仏直前、上野精養軒でドイツ帰りの義兄からテーブルマナーを教わったという逸話が残っている。

まったくの偶然ながら、漱石の大学予備門(のちの一高)の同級生で、のちに日本民族学の創始者となる南方熊楠(みなかた・くまぐす)は、漱石たちが欧州行きの船の切符を買ったこの日、ロンドンを立ち去っている。5年余り世界各地を放浪したあと、ロンドンに落ち着き、大英博物館の東洋関係の資料の整理などを手伝っていたが、長い海外生活にここで区切りをつけたのだった。

■今日の漱石「心の言葉」
いっしょにやろう。大いに西洋料理でも食って(『野分』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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