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3 夏目漱石 2
今から117 年前の今日、すなわち明治32年(1899)8月29日、熊本第五高等学校の英語教師である32歳の漱石は、夏休みを利用して、同僚の山川信次郎とともに、阿蘇方面へ4泊5日の旅行に出発した。山川信次郎は、9月頭に東京の第一高等学校へ転任することが決まっていた。その送別旅行といった意味合いも含んでいた。

山川信次郎は、漱石の学生時代からの親しい友人だった。漱石が鏡子と結婚して熊本で新婚生活をはじめた際も、すぐに他の友人と連名でお祝いの手紙を寄越してくれた。そのユニークな手紙について、後年、鏡子が『漱石の思い出』の中で楽しげに回想している。

《結婚のお祝いの手紙が狩野亨吉、松本文三郎、米山天然居士、山川信次郎、たしかこの四人さんの連名で参りました。みるとたいへん堂々たるお手紙で、祝辞が滔々と述べてあって、お祝いの品別紙目録どおりとあって、その目録が鯛昆布から始まって、めでたい品の限りを尽くしております。

こんなにたくさんの品を送ってくだすったのか、お友達というものはえらくありがたいものだと読んでいきますと、一番終(しま)いに小さい文字で、お祝いの品々は遠路のところ後より送り申さず候と、とうとう新婚早々一本かつがれてしまいました》

かつぐ方もかつがれる方も、楽しさいっぱい。漱石と愉快な仲間たちの笑い顔までが目に見えるようだ。

山川信次郎を熊本五高に呼び寄せたのも漱石で、赴任当初は漱石夫妻の住む合羽町の家に同居していたりもした。熊本では仕事上でも私生活の上でも、漱石が何かと打ち明けて相談できる相手だった。のちに小説『草枕』に実を結ぶ小天温泉行きも含め、福岡、佐賀などへも一緒に旅行した旅仲間でもあった。いなくなるのは心細いところもあったが、家庭の事情やら兄の病気などがあって、致し方がなかった。

旅行初日のこの日は、ふたりは阿蘇への入口となる烏帽子岳西南の戸下温泉まできて一泊した。明日は内牧温泉、明後日は阿蘇神社を詣でて、中岳の頂上を目指す旅程を組んでいた。

この日、漱石の詠んだ句。

《重ぬべき単衣も持たず肌寒し》
《山里や今宵秋立つ水の音》

阿蘇の山裾までくると、もうすっかり秋の気配で、夕刻ともなると肌寒くもあった。この旅の思い出は、後年、小説『二百十日』の素材として使われることになる。

漱石の出発を見送った鏡子夫人は、生後3か月の乳飲み子である長女・筆子を抱えて、頑丈な体格の働き者ながらちょっと臆病なところのある女中のテルとともに、自宅で留守番をしていた。

■今日の漱石「心の言葉」
去られるのはまことに残念である、大いに惜しむところである(『坊っちゃん』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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