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3 夏目漱石 2
今から102 年前の今日、すなわち大正3年(1914)8月23日、47歳の漱石は門下の岩波茂雄を東京・早稲田南町の自宅書斎に迎え入れ、小説『心』の単行本出版について相談していた。

朝日新聞連載のこの小説は去る8月1日に脱稿し、8月11日に最終回が紙面に掲載され完結したばかりであった。

岩波茂雄はこの前年に神田神保町に古書店を開き、本格的に出版業にも乗り出したいと考えていた。漱石は古書店開業の当初から、大口取引のための資金調達の相談を受け3000円の株券を無償で貸すなど、何かと支援をしていた。

その際、こうしたことに余りに呑気で淡泊な漱石に代わって、妻の鏡子が万一のときのため書類を作ってくれるよう頼む場面もあった。回想録『漱石の思い出』の中で、鏡子はこう語っている。

《お貸しするのは差し支えないのですが、ともかく三千円といえば私どもにとっては大金です。なるほど夏目にも岩波さんにも当事者どうし双方まちがいがなければ何のことはないのでしょうが、人間のことですからいつ何時どういうことがないとも限らない。その時になって、万一おもしろくないことなどがあっては困るから、ともかくどちらかがかけても第三者にもわかるような契約をしていただきたいと、私が株券を持って出て、岩波さんを前にしてちょっと開きなおった形で申したものです》

鏡子の言葉に、岩波茂雄もさすがに居住まいを正す。漱石は、そんなにまでするのは気の毒ではないかという顔つきをしながらも、ともかく鏡子の言葉に従い、

「別に君を疑うわけではないが、細君がああまでいうのだから、契約は契約としておいてくれたまえ」

そう言って、書類と引換えの形で株券を渡したという。

このことを手始めに、時々大口の注文などで資金が必要になると、岩波茂雄は漱石のもとを訪れ、事情を打ちあけて融通をつけてもらっていた。

いま小さな舟で出版の世界に乗り出していこうとする岩波茂雄にとっては、漱石の小説を刊行できること自体が、師からのこの上ない後押しであった。しかも、資金や体勢が十分に整っていない岩波の現状を考慮して、漱石は自分の方から申し出て、ほとんど自費出版のような形で刊行することで話は進んでいた。

岩波茂雄はまだ素人同然だから、漱石と相談しながら種々の段取りを決めていく。費用がかさむのも構わず、意気込んで、なんでもかんでも最高の仕上がりにしようとする茂雄に対し、漱石の方が歯止めをかけ、こんなふうにたしなめる。

「元手ばかりかけても、売り物だということを少しも考えなければ、結局、皆目儲けがなくなってしまうじゃないか」

役回りが、まるであべこべであった。

一方で、以前から本の装幀や意匠に深い興味と趣味を有していた漱石は、これを好機ととらえ、自ら表紙、箱、見返し、扉などすべてのデザインをすることにした。表紙のデザインには、橋口貢から送られた中国周時代の石鼓文の拓本を用いることにした。箱に用いる牡丹の図案や見返しの模様、扉に使う腰掛けている仙人の絵も、自ら描いた。

この日は、扉の対抗(表見返しの裏側)についても話が及んだ。印章を捺したようなデザインにしようということで、具体的な案は「考えて明日にでも送ろう」と、漱石は約束した。

翌日、漱石が準備したのは欧文印章の下絵となる手描き文字。

ラテン語で、《ars longa,vita brevis.》(芸術は長し、人生は短し)。

芸術の持つ永遠性を現すとともに、技芸の奥義は簡単には極めることができないことを意味する言葉。近年の自身の心境にも、ぴたりと符号するものであった。

■今日の漱石「心の言葉」
ことごとく自分で考案して自分で描いた(『心』自序より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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