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3 夏目漱石 2
今から111 年前の今日、すなわち明治38年(1905)8月22日、漱石は東京・千駄木の自宅で井戸屋を待っていた。

やがて待ち人たちがやってきて、漱石と妻の鏡子が見守る中、井戸換えの作業にとりかかった。井戸換えとは、井戸の水をくみ出して行なう大規模な清掃作業で、昔はこれを専門とする業者がいたのである。

明治の東京下町の生活用水は、神田・玉川上水などの上水道の埋設管から井戸によって取水を行なうのが一般的なスタイルだった。埋め立てで町を整備した歴史的背景から、普通に地下からくみあげる地下水は塩辛くて飲用には適さなかった。

一方で、近代都市としての整備の中で、新しい浄水場の建設や鉄管の敷設も進められてはいたが、各戸への水道の設置はまだ行き渡らず、基本的なやり方は江戸期のものを引き継いでいた。

この漱石の千駄木の家は、建坪およそ39坪。漱石が英国留学から帰朝後、最初に借りて住んだ家で、持ち主は漱石の学生時代の友人の斎藤阿具だった。斎藤阿具はその数年前から東京を離れて仙台二高に勤務していて、さらに漱石と入れ代わるように欧州へ留学した。その留守となっている千駄木の家に、漱石一家が入ったという形だった。

とはいえ、これは漱石と阿具が相談して決めたことではなかった。のちに、斎藤阿具がこう証言している。

《夏目君と僕とは知合の間だから、相対で家を貸借したろうと思われるのは当然である。ところが事実は僕の全く与(あず)かり知らなかった事である。

(略)僕は君と行違いに渡欧したのであるから、短日月の間に日本と独逸(ドイツ)との間に交渉の出来よう筈もない。僕は後になって郷里の家から、夏目という人が千駄木の家を借りたと通信のあったので、さては我友夏目君かと想像したのである。

かような次第で、僕はやがて我家の住者は果して我友の君だと分ったから独逸から君に書面を送った事がある。後年僕が東京に移ってから、ある時君にどうして我家に入る事となったかと尋ねたるに、君はあの家の前を通りしに、貸家になっていた、そうして隣りの車屋で聞いたら、敷金も要らぬと言うから、借りる事にしたのだと答えられた事がある》(『夏目君と僕と僕の家』)

つまりはまったく偶然のなりゆきで、漱石は友人の家を借りたのだ。さらに驚くべきことに、斎藤阿具の持家となる前、そこには一時期、森鴎外が住んだことがあった。明治23年(1890)秋から1年余のことで、この奇遇を生前の漱石はついに知ることがなかった。

話を井戸換えの日のことに戻す。

斎藤阿具はドイツに留学中で、家の賃貸にまつわる手続きその他は、阿具の実家筋と連絡をとっていた。漱石はこの日夕刻、埼玉在住の斎藤喜助宛てに手紙を書き、かねて連絡していた井戸換えのことについて報じたあと、他にも修繕してもらいたい箇所を次のように列記した。

一、流しのたたきの破損及び湯殿の壁の破損
一、玄関のひさしのふき換
一、樋竹の腐蝕
一、台所のひさしのくされたる所
一、湯殿のガラス障子の破損
一、郁文館と小生後園との垣(人のムやミに出入スル所)

これらを手当てしてくれるなら、井戸換えの費用として5円を負担するというのが漱石の申し出だった。

引っ越して半年弱。貸し主が近所にいないこともあり、暮らし向きが落ち着いてきて初めて気がつく破損や磨耗も少なくなかったのだろう。そこには、鏡子夫人の「女目線」による指摘もかなり反映していたと想像される。

■今日の漱石「心の言葉」
自分で身にまとうものを捜し出し、自分で井戸を掘って水を飲む(『道楽と職業』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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