サライ.jp

3 夏目漱石 2

今からちょうど100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)8月21日、漱石は午前中、東京・早稲田南町の自宅、通称「漱石山房」の書斎にこもり、朝日新聞に連載中の小説『明暗』の原稿を執筆していた。

使用している原稿用紙は、橋口五葉のデザインによる特注品。朝日新聞の小説欄の字詰めに合わせ、桝目は19字詰め10行になっていた。いま、一番下の枡目を空白にして1行18字で原稿を書き進めているのは、その後の新聞のレイアウトの改変で小説欄の字詰めも変更になっているからだった。1回分の分量の目安は約1800字。この原稿用紙でちょうど10枚だった。

小説内では登場人物たちが互いに緊張感をはらみながら絡み合いぶつかり合って、物語が展開していたが、この夏は存外に涼しく、凌ぎやすいので助かっていた。午前中を執筆に当て、午後からは凝り固まった気分を解きほぐすために、絵を描いたり漢詩を作ったりするのが、この頃の漱石の日々の過ごし方だった。

この日の午後は、千葉県の一宮海岸から葉書を寄越した門下生の芥川龍之介と久米正雄へ宛てて、次のような漢詩を織り込みつつ返事の手紙をしたためた。

尋仙未向碧山行。住在人間足道情。明暗双双三万字。撫摩石印自由成。
(仙を尋ぬるも、未だ碧山に向かって行かず。住みて人間に在りて、道情足る。明暗双双三万字。石印を撫摩して、自由に成る。)

仙境に向かわず人間世界に住んでいても、脱俗の心情は満ち足りていて、『明暗』の原稿は石印をなでさすっている間に自ずと出来上がってゆく。そんな意味だった。

筆を執る苦悶も快楽も、漱石の中では、ごく当たり前の日常の中に溶け込みつつあったのである。手紙には、こんな一節も綴り、若い人たちを励ました。

《勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積(つもり)でしょう。僕もその積であなた方の将来を見ています。どうぞ偉くなって下さい。しかし無暗(むやみ)にあせっては不可(いけ)ません。ただ牛のように図々(ずうずう)しく進んで行くのが大事です》

東京帝国大学に在学中の芥川龍之介や久米正雄は、半年前、文芸同人誌『新思潮』(第4次)を創刊。その創刊号を師である漱石に送り、批評を仰いでいた。漱石は大家ぶらず率直な感想を述べ、わけても、龍之介の『鼻』を《ああいうものをこれから二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます》と絶賛した。

49歳(数え年では50歳)となっている漱石の目線は、新しい時代を担っていく若い人たちに温かく注がれている。

四方を埋めつくすような蝉の鳴き声が、漱石山房を包んでいた。その鳴き声と同じように、漱石が手紙に綴った一文字一文字が、それを読む弟子たちの胸の中にしみこんでいく。

■今日の漱石「心の言葉」
図々しく進んでいくのが大事です(『書簡』大正5年8月21日より)

0821_1

漱石がなでさすっていたお気に入りの印章のひとつ。篆刻家・岡村梅軒により大正5年に刻された。「間日月」は「閑日月」と同意で、ひまに過ごす日月、つまりゆとりのある心境を示す。

漱石がなでさすっていたお気に入りの印章のひとつ。篆刻家・岡村梅軒により大正5年に刻された。「間日月」は「閑日月」と同意で、ひまに過ごす日月、つまりゆとりのある心境を示す。

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

「日めくり漱石」の記事一覧へ

ランキング

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

サライ最新号
2020年
10月号

サライ最新号

大人の逸品Online Store

通販別冊
通販別冊

心に響き長く愛せるモノだけを厳選した通販メディア