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病床の夏目漱石、傍らでは鏡子夫人が医師に厳しく詰め寄る。【日めくり漱石/8月20日】

3 夏目漱石 2

今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)8月20日、43歳の漱石は伊豆・修善寺の菊屋旅館の一室で横になっていた。東京での胃潰瘍の入院治療のあと、転地療養のためこの地にきて2週間が経過していた。

到着草々から胃の調子が悪く、痙攣や酸液の嘔吐、少量の血も吐いていた。食物も流動食のようなものしか口にできなくなっていた。

その旅館の別室で--。

「お帰りになりたいって、どういうことです?」

そう詰め寄る漱石夫人、鏡子の口調は、いつにない厳しいものであった。

詰め寄られている相手は、長与胃腸病院の医師・森成麟造。漱石を診察した地元・修善寺の医師から連絡を受け、2日前に、朝日新聞の坂本雪鳥とともに東京から駆けつけていたのだった。

「自分はもともと、ちょっとの診察のつもりで来たのです。病状も今はひとまず落ち着いているようですし、病院の方の仕事もあるので…」

森成は言い訳のように返答した

鏡子はいよいよ目を吊り上げて言い募った。

「それはいけないでしょう。主人は、こっちへくる前にわざわざお宅の病院へ行って、旅行してもいいかどうか伺って、快諾を得て来たのです。それが、来るや否やすぐ病気を発するなどというのは、一部は確かに病院の責任ともいうべきことでしょう。私からいえば、お医者様の診察違いとでも言いたいところだのに、その病人をうっちゃって帰るなどとは、もってのほかじゃありませんか」

鏡子は、漱石の病状悪化の知らせを受け、昨日、修善寺に駆けつけたところなのだ。入れ代わりのように主治医が帰京してしまうなんて、とんでもないことだった。

鏡子の激しい剣幕に押し切られた森成は、長与胃腸病院へ電報を打った。まもなく病院からの返電で、「夏目氏全快まで居よ、副院長の杉本東造も修善寺に行かせる」と言ってきた。森成からその報告を受け、鏡子はようやく表情を緩めた。

医師と妻とのそんなせめぎ合いを知ることなく、漱石は氷で腹部を冷やしながら静かに横になっている。この日、牛乳とスープの朝食のあと、しばらくして胃に膨満感と苦痛を覚えたものの、服用した薬が効いたらしく、昼からは比較的気分よく過ごしている。

夜には、東京からの終列車で朝日新聞同僚の渋川玄耳も駆けつけ、「思ったよりも元気そうじゃないか」などと声をかけられ、微笑で応じる。まさか、この数日後、いきなりあの世との境に一歩足を踏み入れることになるとは、漱石自身も想像もしていない。

■今日の漱石「心の言葉」
ただ生きて居るのを慰安とせねばならぬ(『野分』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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