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3 夏目漱石 2

今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)8月18日、43歳の漱石は転地療養先の伊豆・修善寺にいた。体の具合は芳しくない。修善寺に向かった8月6日から手帳につけ始めていた日記も、2日前(8月16日)に《苦痛一字も書く能(あた)わず》と記したあとは、空欄のまま日を過ごしていた。

伊豆・修善寺のテーマパーク「虹の郷」内を訪れると、かつて漱石が宿泊した菊屋旅館の部屋が移築・保存されていた。

伊豆・修善寺のテーマパーク「虹の郷」内を訪れると、かつて漱石が宿泊した菊屋旅館の部屋が移築・保存されていた。

一方、東京の留守宅にいた妻の鏡子は、荒天で不通になっていた汽車が開通したので、茅ヶ崎へと向かうことにした。ここ何日かの豪雨で、関東近郊の各地は激しい水害に見舞われていた。茅ヶ崎には子供たちが、鏡子の母・中根カツとともに、少し前から海水浴に出かけていた。心配なので、その様子を見に行きたいと考えたのである。電話で連絡を取ろうにも非常に回線が混み合って、ほとんどつながらない状況であった。

鏡子の妹の梅子と弟の倫も、箱根に出かけていて、あろうことか、宿泊先の旅館が流されたというニュースが伝えられていた。何人かが行方不明になっているらしかった。確認する術もなくただ心配していたが、どうやら無事に避難して横浜に帰ったという連絡が、少し前に入った。修善寺に転地療養している夫・漱石のことももちろん気になってはいたが、「緊急扱い」でどうにかつなげてもらった電話で、6日前に本人とも話して、大丈夫ということだったので、そちらはひとまず心配事の枠の中から外していたのである。

茅ヶ崎に着いて子供たちと母親の元気な姿を確認した鏡子は、母親に弟妹の無事であることを告げ、横浜の妹の家へ向かわせた。鏡子は、その晩は子供たちと一緒に茅ヶ崎に泊まるつもりだった。

東京の自宅から、打ち返しの、

「修善寺へ急行せよ」

との電報が届いたのは、その直後だった。修善寺で漱石のそばにいる門弟の松根東洋城から夏目家に電報が届き、留守番していた漱石門下の東新がそれを転送するような形で、茅ヶ崎へ電報を打ったのだった。

鏡子は慌てた。子供たちを残し、急いで横浜まで戻った。そこで汽車を乗り換え、三島から大仁を経て修善寺へ駆けつけようとした。しかし、横浜に着いた時にはすでに三島方面への汽車はなかった。

鏡子は翌朝一番の汽車に乗ることとし、ひとまず妹の家に行き、不安で眠れぬ一夜を過ごす。修善寺の漱石先生も、すぐれぬ体調をこらえ、ただじっと横になっている。

なお、漱石が病臥していた菊屋旅館の部屋は、その後、修善寺のテーマパーク「虹の郷(さと)」の園内に移築・保存されている。筆者も以前一度、訪れたことがある。修善寺界隈を旅する機会があれば、往時をしのぶよすがとして、ちょっと立ち寄ってみるのも一興かもしれない。

■今日の漱石「心の言葉」
不安を、一刻一分の短時間に煮詰めた恐ろしさを経験している(『行人』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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