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3 夏目漱石 2

今から104 年前の今日、すなわち大正元年(1912)8月17日、45歳の漱石は、ひとり上野発青森行の急行列車に揺られていた。行き先は那須塩原。学生時代からの友人で満鉄総裁の中村是公が先に向かっており、現地で落ち合うことになっていた。

漱石と是公は、学生時代、同じ私塾でアルバイトしながら、その寄宿舎で共同生活を送っていたこともある仲。それも、私塾からもらう月給は机の上にごちゃまぜに置いて、ふたりして仲よく、蕎麦だの寿司だの汁粉だのを食べ歩いていたという。

大学卒業後、漱石は松山へ、是公は台湾へ渡るなどして互いに音信は途絶えていたが、偶然にロンドンで再会。それから、数年を経て、頻繁に行き来する交際が復活した。かたや満鉄総裁、かたや文豪。世間ではそう見られていて、事実その通りなのだが、当人たちだけは互いに学生時代のままのような感覚で、「お前、俺」の友達付き合いをしていた。

那須塩原へ向かう列車に揺られながら、漱石はふと、おとといの夜のことを思い出す。

当初、旅の出発はこの前日、8月16日の朝と取り決めていた。

ところが、15日の晩、妻の鏡子が激しい腹痛を起こした。たまたまきていた門弟たち、松根東洋城と森田草平も手伝って世話をして、だいぶ落ち着いたが、そのまま家に置いて旅行に出かけるのは心もとない。ともかく1日出発を延ばし様子を見て、大丈夫そうなら出かけるし、まだ心配が残るようなら旅行は取り止めることにしよう。漱石はそう決めて、中村是公に急ぎ電話をかけることにした。

夏目家にはまだ電話がない。公衆電話を使って連絡しようと、漱石は5銭玉をひとつ握りしめて家を出た。初めて公衆電話に向かう漱石は、よく段取りがわからない。受話器をとってチリンチリンとベルを鳴らし、交換手が出るや否や、手にしていた5銭玉を機械の中へ放り込んだ。

ところが、しばらくして交換手が「お出になりましたから料金を入れて下さい」と促す。漱石は慌てた。予備のお金は持っていない。正直に「さっき入れたのですが」と申し出てみたが、「はい、そうですか」とは応じてくれない。さんざんっぱら注意され、正しい使い方の講釈を受け、ようやく「今度だけは」とつないでもらった。

帰宅した漱石が、冷や汗ものの事の顛末を話すと、聞いた東洋城は「先生もお殿様ですな」と大笑い。普段は、時として浮世離れともとれる思い切ったお金の使い方をする鏡子やその妹のことを、「まるでお大名だよ」などと揶揄している漱石も、形無しだった。

幸い鏡子は回復し心配もなくなり、いま漱石は、列車に揺られ塩原へ向かっている。その先は、日光、軽井沢、長野方面へと、気の置けない友とふたり、仕事も忘れ、2週間ばかり呑気な旅をする予定になっていた。

■今日の漱石「心の言葉」
この旅中に人情界に帰る必要はない。あっては折角の旅が無駄になる(『草枕』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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