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3 夏目漱石 2

今から115 年前の今日、すなわち明治34年(1901)8月15日、ロンドン留学中の34歳の漱石は、パリからやってくる土井晩翠と志賀潔を迎えるため、ヴィクトリア停車場へ出向いた。到着予定時刻は、あらかじめ晩翠が電報で知らせてきていた。

土井晩翠は漱石より4年遅れて東京帝国大学英文科を卒業した後輩。詩人として活躍する傍ら、つい数か月前まで英文学者として出身校の仙台二高で教鞭をとっていた。同郷の医学者・志賀潔が北里研究所からの在欧研究者として洋行するという話を聞き、晩翠も教職を辞して同じ船で渡欧することを決断した。実家が古くから仙台で質店を営んできた豪商だったので、官費に頼らずとも私費でヨーロッパ留学を敢行することができたのである。

この土井晩翠の名は、現在は、名曲『荒城の月』の詩の作者として記憶している人も多いだろう(作曲は滝廉太郎)。

「やあ、お久しぶり」「お久しぶりです」

顔を合わせた漱石と晩翠は、まずはそんな挨拶を交わしただろう。

両人は留学前から面識があった。漱石の壮行会にも、晩翆は出席している。そんな縁があったから、晩翆は今回の渡欧に際しても、漱石に手渡すべく、鏡子から預かりものをしていた。

冬物の肌着の上下1枚ずつと絹のハンカチ4枚。

文字にするとなんということもない荷物だが、そこにはやはり夫人ならではのこまやかな愛情が読み取れる。

手紙も託されていた。鏡子とその父・中根重一、鏡子の妹の梅子、以上3人からの手紙であった。漱石が日本を離れて、もうすぐまる1年。手渡された手紙には、国際郵便で届くのとは別種の、体温のようなものが感じられたはずだ。

故国からの温もりを届けた土井晩翠は、このあとしばらく、クラパム・コモンの漱石の下宿に同宿することになる。

翌々日、漱石は鏡子宛てに手紙を書いている。

《八月十五日土井氏パリスより来倫、当分小生方に止宿のことに致し候。同君より肌着上下一着絹ハンケチ四枚受け取り申し候。御厚意ありがたく存じ候。中根父上の手紙、其許(そこもと)及び梅子どのの手紙、拝見致し候。父上には目下御休職御閑散のよし、結構に存じ候。其許御病気のよし、目下は定めて御全快のこと、なお御注意しかるべくと存じ候。小児両人とも健康のよし、結構に候。(略)小生至極(しごく)丈夫、御安心下さるべく候》

文面にいつもより固さが感じられるのは、室内に客人がいるせいかもしれなかった。漱石は《父上には目下御休職御閑散のよし、結構に存じ候》と、義父・中根重一の消息にさりげなくふれているが、実際はそれほど生易しくはない。政界の動きに翻弄されて貴族院書記官長の職を失い、その上、相場に手を出して失敗。経済的に厳しい状況に追い込まれていた。実家の離れを借りて、漱石の休職手当てで暮らす鏡子と子供たちの生活も、ひそかに頼みとしていた中根重一からの援助も受けられず、ぎりぎり切り詰めたものとなっていた。しまいには、着るものにも窮し、漱石の着物を仕立て直して着破ってしまう鏡子である。

一方の漱石も、この頃から下宿に閉じこもって、神経をすり減らすような思いで、勉学に没頭していく。

この土井晩翠には、のちに、ロンドンから文部省に「夏目狂セリ」という虚偽の電報を打ったという疑いがかけられた。同じ英文学の研究者であったことから、漱石を失脚させる意図があって、孤独な勉強に没入し神経をすり減らす漱石のことを、故意に貶めようとしたかのような噂もあった。

晩翆は『漱石さんのロンドンにおけるエピソード』という一文を草し、こうした疑いを完全に否定している。

《私は文部省派遣の留学生では無く前述の如く、父にせがんでの全くの私費生でした(略)何等の関係のない一私人が文部省に対して「貴省の留学生夏目が発狂した……」云々と打電したならそれこそ本気の沙汰ではありますまい》

この電報の件は、かくの如く謎にみちて事実関係が不明だが、漱石はこの噂を逆手にとって利用した面もあったように思える。というのも、官職というのはややこしいもので、熊本五高の教授として英国へ派遣された漱石は、原則として、帰朝後は再び熊本五高へ戻ることを求められた。だが、松山、熊本、ロンドンと、7年半にわたって生まれ故郷の東京を離れていた漱石は、帰朝後は住みなれた東京へ帰りたくなっていた。そこで、いろいろと手を尽くし、熊本五高を辞して東京帝大か第一高等学校へ転任できるよう周囲に働きかけていた。

こんな手紙が残っている。

《小生熊本の方いよいよ辞職と事きまり候に就いては医師の珍〔診〕断書入り用との事にこれあり候えども知人中に医者の知己これなく、大兄より呉秀三君に小生が神経衰弱なる旨の珍〔診〕断書を書いてくれるよう依頼してくだされまじくや。小生は一度倫敦にて面会致し候事あれど、君ほど懇意ならず。ちょっとじかにたのみにくし。何分よろしく願い上げ候》(明治36年3月9日付、菅虎雄あて)

要は、帰京を確実なものとするため、「ロンドンでひどい神経衰弱となったため、熊本での勤務を続けるのは困難。住みなれた東京へ転任させた方がいい」といった内容の診断書を医師(呉秀三)に書いてもらうべく、友人の菅虎雄に頼んでいるのだ。手紙文中の「珍断書」は「診断書」の書き間違いと解釈するのが一般的だが、漱石の依頼したのはまさに「珍断書」で、書き間違いではないと見ることもできる。

■今日の漱石「心の言葉」
現下の如き世の中には、正しき人でありさえすれば必ず神経衰弱になることと存じ候(『書簡』明治39年6月6日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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