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3 夏目漱石 2

今から107 年前の今日、すなわち明治42年(1909)8月14日、42歳の漱石は朝日新聞紙上に連載中の小説『それから』の最終回(110 回)の原稿を書き上げた。5月31日の起稿だから、執筆期間はちょうど2か月半におよんだのだった。

書き上げた原稿は、書生として夏目家に住み込んでいる西村誠三郎に頼んで、東京朝日新聞社へ届けてもらった。かなりスムースに筆が運び、新聞に掲載する61回分を先行して書きためる形での脱稿だった。

新聞連載小説というと、読者はもちろんのこと、新聞社内の印刷現場の職工たちが刷り上がったそばから読むのを楽しみにしているという事態が、時折ある。『宮本武蔵』『新・平家物語』などで知られる吉川英治の小説もそうだった。

漱石の場合はさらに一歩進んで、大阪朝日新聞の活版部員が、漱石の連載小説をひそかに別に刷り直して製本した「私家版」のようなものまで作成していた。漱石の作品は印刷現場でも人気が高かったが、すぐには単行本にならないので独自に本の体裁にしようと考え、新聞の印刷に使った鉛の組版を壊す前に20部ほど和紙に刷っておき、連載修了後まとめて和綴じ本に仕立てていたのだという。

「社内版」と呼ばれるもので、後年になると資料的価値も上がり、古書業界では一種の稀覯本として知られるようになる。まだ著作権が浸透せず、万事におおらかな時代の産物だが、小説『それから』も、この「社内版」が存在する。

この日、漱石が書き上げた最終回の原稿の新聞掲載は10月14日。春陽堂から単行本が刊行されるのは、年明け早々(奥付の発行日は明治43年1月1日)。「曽蓮伽羅」の当て字のタイトルを表紙に付した和綴じの「社内版」は、仲間内に配られたものとて奥付もないが、おそらく10月中には出来上がっていただろう。

2か月半に及ぶ原稿執筆から解放された漱石は、その後、長谷川如是閑の小説『額の男』を読みはじめた。10日ほど前、大阪朝日新聞の鳥居素川から送られ批評文を書くよう依頼されていたのだが、結末に近づく『それから』の執筆に気持ちを集中したいので、しばし保留にしてもらっていたのだった。

妻の鏡子はこの頃、7人目の子供を身ごもっていた。2日ほど前には、悪阻(つわり)がひどいので近所の婦人科の医師・中島襄吉に往診を頼んだりもしていた。

実はこのあくる日、8月15日に、漱石の友人の菅虎雄の夫人の静代が、産後の肥立ちが悪く亡くなっている。医学の発展度合いからいって、妊娠・出産には、いま以上に多くの危険が伴う時代であった。

一方で、漱石はなかなかの子供好き。経済事情が許すならば、もっともっと多くの子供を持ちたいとも思っていた。日記にも、

《子供は二十人でも三十人でも多々益(ますます)可なり》

と綴っている漱石先生なのだった。

■今日の漱石「心の言葉」
妊娠中だからなるべく注意なさい(『書簡』大正5年8月24日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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