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3 夏目漱石 2

今から103 年前の今日、すなわち大正2年(1913)8月13日、46歳の漱石は使いの者に頼んで、友人の画家・津田青楓宅へ祝いの品を届けさせた。10日前、青楓の家では長男が誕生していた。漱石によって、この男児は安丸と名づけられていた。由来は安産で「安々と生まれたから」で、「ヤスく生マれル」でヤスマル、としたのだった。

他に、「長く待ったから長松」とか「高田老松町で生まれたから高松」といった候補を漱石は上げていた。漱石とすれば、とくに正式に命名を頼まれたわけでもなかったので、長男誕生の知らせを受けて、ただただ手紙で祝辞を述べながら、ほとんど冗談で「こんな名前はどうですか」と付け加えたまでのことだった。

ところが、青楓の方で、折角だからということでその候補の中から「安丸」を採用し、実際に命名してしまった。少々古くささを感じないでもないが、親としての青楓が大正モダ

ンの時代に適合させるより、漱石から名づけしてもらう光栄を選んだということだろう。

漱石は以前、別の人の頼みで名づけ親を引き受けたとき、「いし子」という名を授けたその娘のために、鏡子が手作りした洋服を贈ったことがあった。今回、青楓のもとに届けたのも、そうした心づくしの品であったと思われる。

漱石は祝いの品に添えて手紙も持たせていた。そこには、誕生祝いを進呈するので受け取ってほしいという用件の他に、先に見た青楓の画を漱石自身が買い求めたい旨をしたためていた。

《安丸君の御祝につまらぬものながら差上ます。御受納下さい。それから、あの画は二枚共私が買いましょう。この間、伝ベエに手紙を書くと申しましたがふと考えて何だか自分が持っていたくなりました。一枚十五円宛にして下さい。ここに十五円入れてあります。これは一枚分です。あとは来月にして下さい。私は画を賞めるが所有して見たいという気はあまりありません。それで君の画もなるべく人に売って上げようと思ったのです。しかしあの画を味い得るものは天下で自分が一番だという気がしますから、自分の宝として宅へ留めて置きたくなりました》

文中の「伝ベエ」は、漱石が英国留学時に知り合った実業家の渡辺伝右衛門のことではないかと推測されている。津田青楓の画を買ってくれるよう知り合いの「伝ベエ」に手紙を書いてみるという話から、漱石本人が購入することに方針転換したというわけ。

もしかすると、このさりげない申し出も、半分は絵画購入にかこつけた御祝儀、漱石先生の粋な計らいだったのかもしれない。

■今日の漱石「心の言葉」

ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である(『草枕』より)

 

 

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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