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3 夏目漱石 2

今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)8月11日、44歳の漱石は午前8時30分新橋発の東海道線急行列車に乗って、大阪方面へ向かった。大阪朝日新聞社の依頼により、関西各地で講演を行なうためだった。本来は昨日、8月10日に東京を発つ予定だったが、7月末に続いての台風の襲来で鉄道が不通になり、1日延期したのだった。

この日の天気は一変して快晴、鉄道も復旧していた。列車内では偶然、熊本五高時代の教え子で川崎造船所に勤務する桑畑彦二や画家の小山正太郎らと一緒になった。大阪・梅田に到着したのは夜8時30分だった。

このあと、漱石の講演は、13日明石(『道楽と職業』)、15日和歌山(『現代日本の開化』)、17日堺(『中味と形式』)、18日大阪(『文芸と道徳』)と続いていく。

漱石が大阪に向かう急行列車に揺られている頃、門下生の森田草平が東京・早稲田南町の夏目家を訪れていた。留守の漱石に代わって鏡子が対応する。

「どうかなさいましたか、森田さん?」

そう問いかける鏡子に、草平は石川啄木の窮状を訴えた。啄木はこの頃、25歳。肺結核にかかり、校正係として勤務する東京朝日新聞社も休み、自宅で病の床についていた。啄木の傍らには、妻の節子と娘の京子、父の一禎、それにやはり胸を患っている母親のカツがいて、ひっそりと暮らしている。

今でこそ、世間に知らぬ者とてない人気歌人の啄木だが、その歌集が多くの人に読まれるのは没後のこと。このころは薬代にも事欠くようなありさまだった。時代の中でしか生きられない人間の哀しみを、ここに感じないではいられない。残された啄木の、独得の3行分かち書きの歌が、いとも切ない。

《こころよく

我にはたらく仕事あれ

それを仕遂げて死なむと思ふ》

《新しき明日(あす)の来(きた)るを信ずといふ

自分の言葉に

嘘はなけれど--》

鏡子は草平の話を聞くと、ただちに5円の見舞金を託し、小石川の石川啄木のもとへと向かわせた。草平は自分も2円を添えて、合わせて7円の見舞金を届けた。ちなみに、東京朝日新聞社における啄木の月給は25円だった。

翌年1月22日にも、鏡子は啄木のところへ行くという草平に、見舞金10円を持たせている。その日の啄木の日記。

《午頃になって森田君が来てくれた。外に工夫がなかったから夏目さんの奥さんへ行って十円貰って来たといって、それを出した。私は全く恐縮した。まだ夏目さんの奥さんにはお目にかかった事もないのである》

鏡子夫人の行動の背景には、もちろん、それを包み込む漱石先生の大きな存在がある。病床で貧窮にも苦しむ啄木の心が、漱石夫妻のやさしさによって、幾分かでもやわらげられたひとときがあったことが、わずかな救いに感じられる。

大阪・梅田の停車場には、講演をお膳立てした大阪朝日新聞の長谷川如是閑と高原操が漱石を出迎えにきてくれていた。当日の漱石の日記に《銀水に入る。川向の家なり》とあるのは、この日、泊まった宿の記述だろう。「銀水」の前には図書館や公会堂、川を挟んで対岸には病院があった。夜になっても暑さは甚だしく、漱石は縁側をあけ放したまま眠りについた。

■今日の漱石「心の言葉」
金より愛の方が大事じゃありませんか(『吾輩は猫である』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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