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3 夏目漱石 2

今から101 年前の今日、すなわち大正4年(1915)8月10日の早朝、48歳の漱石は玄関で旅支度の家族を見送っていた。

妻の鏡子が、次女の恒子(14歳)と下ふたりの男の子、純一(8歳)と伸六(6歳)を連れて、早稲田南町の自邸を出発しようとしていたのである。4人は、東京駅7時20分発、大垣行きの列車に乗ることになっていた。

鏡子は貧血気味で普段は朝寝坊。そのことで漱石は時折、小言を言ったりもしていた。ロンドン留学中、鏡子へあてた手紙の中にも、こんなふうに書いている。

《夜は十二時過、朝は九時十時までも寝るよし。夜はともかくも朝は少々早く起きるように注意ありたし》(明治35年5月14日付)

それでも鏡子の朝寝坊は改まらず、「無理に起きると一日中頭が痛くて却って差支えがある」などと言い訳していた。

だが、こういう時の鏡子は人が違ったように早起きする。漱石もその辺は感じ取って、半ば呆れ半ば笑って見ている。ある日の漱石の日記の中には、こんな記述も読める。

《朝寝も彼女の特色である。しかし何処かへ行く約束でもある時は驚くべく早く起きる。常は早起きをすると一日頭が悪いとかいっているが、こんな日に限ぎって終日外出して帰って来ても寝足りないで頭が痛いなどといった試しがない》(大正3年12月8日)

 

これより6日前の8月4日、長女の筆子(16歳)と三女の栄子(12歳)は、皆に先んじて富士登山に出かけていた。引率したのは、漱石門下の行徳二郎と鏡子の末弟の中根壮任(たけとう)。発案者は行徳二郎で、6月の末には早々と漱石の許可も取り付けて臨んだ登山だった。

漱石自身も学生時代、2度にわたって、友人と一緒に富士山に登ったことがあった。最初は明治20年(1887)夏、2度目は明治24年(1891)の夏だった。

《西行も笠ぬいで見る富士の山》

と、富士山を鑽仰するような句を詠んだのも、同じ頃だった。

筆子や栄子たちはすでに2日前(8月8日)には無事に富士山の頂きを踏み、昨日、御殿場口まで下山してきていた。鏡子たちは彼らと沼津で落ち合い、三島館という旅館に泊まり、4泊5日の旅行を楽しむ計画を立てていた。鏡子がいつになく早起きするのも、当然のことなのである。

旅に出る妻子を見送ってあとに残された漱石は、鏡子たちが列車に揺られている頃、書斎で紫檀の座机に向かい、新聞連載中の小説『道草』の原稿を書き進めていく。当たり前のことであるが、漱石先生、創作家であると同時に、女房子供を養う一家の主なのである。午前中に1回分ずつの原稿を書き上げていくというのが、6月以来続く、ここのところの漱石先生の日課だった。

■今日の漱石「心の言葉」
働いている。またこれからも働くつもりだ(『それから』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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