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3 夏目漱石 2

今から111 年前の今日、すなわち明治38年(1905)8月8日の夜、38歳の漱石は、東京・千駄木の自宅書斎に橋口五葉を迎え入れていた。五葉は本名・清。東京美術学校(東京芸術大学の前身)で西洋画を学び、この7月に卒業したばかり。実兄の橋口貢が漱石の熊本五高時代の教え子であったことから、五葉も兄を介して漱石と交流を持つようになっていたのである。漱石の紹介で、大学在学中から俳句文芸雑誌『ホトトギス』の挿絵なども描いていた。

「今度、『猫』を出版することになってね。その装幀を君に頼みたいんだ」

漱石は、五葉に向かってそんなふうに切り出した。

巨人猫が人間世界を睥睨する様子が描かれた『吾輩は猫である』上巻の表紙カバー。猫の目線からの社会批評という中身を彷彿させる。

巨人猫が人間世界を睥睨する様子が描かれた『吾輩は猫である』上巻の表紙カバー。猫の目線からの社会批評という中身を彷彿させる。

『猫』はもちろん『吾輩は猫である』。猫の目を通して明治の世相と人間模様を風刺的に描いたこの小説は、これまで5回(5章)にわたって『ホトトギス』に掲載され、世間の評判を呼んでいた。連載はまだ継続していたが、すでに上巻として単行本1冊にするだけの分量には達していた。

この数日前、日本橋の大手出版社・大倉書店の番頭だった服部国太郎が漱石のもとを訪れた。その用件が、『猫』を単行本として出版したいので許可してくれないかという申し入れだった。服部国太郎はこのころ服部書店という出版社を運営しはじめていて、大倉書店との共同出版という形で『猫』を上梓したいというのだった。

漱石には、自分の本を出すなら美しい装幀の本にしたいという強い希望があった。

留学中のヨーロッパで、一冊一冊手作業で製本(ルリユール)されたものを含め、革装・金箔押しなどを施した美しい本をたくさん目にしてきて、

「本とは、かくも美しいものか」

と再認識していた部分もあったのだろう。

多少経費がかさみ定価の高い本になってもいい、安手の作りでは出版したくない。漱石はそう考えていた。版元側も漱石のこの希望を入れ、とんとん拍子に話が進展し、今日の漱石と橋口五葉の対面に至っているのだった。

漱石はさまざまな洋書や洋雑誌を五葉に見せながら、自己の希望を熱く語った。

ギリシャ彫刻のような巨人猫が、槍の如きペンを持ち、玩具のような人間世界を睥睨する様を描いた表紙カバー(ジャケット)の原案も、このときある程度煮詰められたものと想像できる。

ひと通りの打ち合わせが済んで五葉が帰ったあとも、漱石は自身の処女出版となる本の姿形について、あれこれの想像を思いめぐらす。翌9日も、漱石は興奮さめやらぬ様子で、五葉へ1通の葉書をしたためている。

《昨夜は失礼致候。その節御依頼の表紙の義はやはり玉子色のとりの子紙の厚きものに朱と金にて何か御工夫願いたく、まずは右御願まで》

これは、表紙カバー(ジャケット)を外したとき、その下にある「表紙」のデザインについての提案。普段は見えぬところにまで凝った目配りをするのは、着物の柄のみならず肌襦袢や羽織の裏にまで気遣いする江戸っ子のお洒落感覚とも響き合う。

カバーの下にくる表紙は、漱石の提案を受けて、薄いクリーム地に金箔押しと朱色の印刷で仕上げられている。なんとも凝った装幀であった。神奈川近代文学館所蔵

カバーの下にくる表紙は、漱石の提案を受けて、薄いクリーム地に金箔押しと朱色の印刷で仕上げられている。なんとも凝った装幀であった。神奈川近代文学館所蔵

初めて自著を刊行する漱石先生の期待と喜びが、短い手紙文の行間に踊っている。

■今日の漱石「心の言葉」

大分綺麗な本が陳列している。どうだい欲しいものがあるかい(『虞美人草』より)

 

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館

夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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