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3 夏目漱石 2

今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)8月6日、43歳の漱石は、転地療養のため、伊豆・修善寺へと旅立った。胃潰瘍のため入院していた東京・内幸町の長与胃腸病院を6日前に退院。医師とも相談し、許しを得た上での旅立ちであった。

妻の鏡子と生後5か月の雛子(ひなこ)が、自宅の玄関先で漱石を見送る。他の子供たちは、夏休み中ということで、祖母(鏡子の母)の中根カツに連れられて茅ヶ崎へ避暑に出かけていた。

漱石が転地療養の行き先を修善寺にしたのは、門弟で宮内省勤めの松根東洋城に勧められたためだった。東洋城はこの時、ちょうど北白川宮の御用掛として、修善寺へ赴くことになっていた。逗留先を門下生と同じくする中で、ゆるりと心身を休めながら、東洋城が時間が空いた時に、歓談したり一緒に俳句をひねったりしたら、退屈しないでよかろうと考えたのであった。

事前の打ち合わせ通り、漱石は午前11時新橋発、神戸行きの列車に乗り込んだ。ところが、東洋城は直前に所要ができてこの列車に間に合わず、「ひと汽車遅れるので、御殿場で待ち合わせしたい」という趣旨の電報が車中の漱石に届いた。

東洋城の乗ってくる列車に乗り換えるべく、いったん降車した御殿場の停車場で、漱石は西洋人が駅員と問答しているのに出くわした。どうやら西洋人は京都へ行きたいらしかった。漱石は見かねて通訳に入ったのだが、なんだか喉が痛くてうまく声が出ず、不快な違和感があった。

あとになってみれば、これが体調悪化の前ぶれであったのかもしれない。漱石の次男の伸六が、後年、母親(鏡子)から聞いた話として、こんなふうに書き付けている。

《母の話に依ると、父の胃病が悪化する前には、不思議と咽喉を痛める事があったというので、この時も、真夏の暑い盛りだというのに、声がしゃがれ、御殿場の構内で、外人と駅夫が頻(しき)りと何かいい争って居る、その通訳をしてやろうにも、ぜいぜいと咽喉が鳴るばかりで、碌(ろく)に声も出ないのには閉口したと、後に父が語ったという話である》(『父・漱石とその周辺』)

ともかくも、漱石は御殿場で、ひと汽車後れの松根東洋城と合流した。そのまま三島まで移動し、そこで大仁線に乗り換えてさらに南下する。大仁駅に着いたのは午後7時40分過ぎだった。日はとっぷりと暮れ、雨も次第に本降りになってきている。漱石と東洋城は人力車を雇って暗闇の中を走り、夥しい蛙の声を聞きながら修善寺の温泉街へ至り、菊屋旅館へと向かった。

北白川宮一行は本館に泊まっている。漱石は別館での宿泊を希望したのだが、あいにく満室だった。しばし待たされたあと、とりあえず一晩だけということで、離れ2階の、10畳の本間に6畳の次の間のついた部屋へと案内された。

部屋の入口には「西村家貸切」と書いた紙が貼られていた。本来は別の予約が入っているところを、頼んで開けてもらったようだった。

ひとつひとつが、思うようにすんなりとは運ばない。なんだかちょっと不穏な雲がつきまとう、旅の始まりだった。

■今日の漱石「心の言葉」
病後の身体を回復することが出来れば、それほど結構なことはないじゃありませんか(『明暗』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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