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3 夏目漱石 2

今から109 年前の今日、すなわち明治40年(1907)8月5日、40歳の漱石は朝日新聞に連載中の小説『虞美人草』を執筆する合間に、『東亜の光』という雑誌のページをぱらぱらとめくっていた。そこに、小林一郎という人が、漱石について自説を書いているのが目に止まった。こんな内容だった。

近頃、漱石の文名が上がるに連れて、相手が漱石というだけで無闇やたらと非難攻撃しようとする文章が目立ってきているようだ。文学者たる者は、もっと雅量をもって他の作物を受け止めるべきではないだろうか。

漱石は、一面識もないこの人物の好意に謝するとともに、なんだか可笑しさも感じていた。確かに、漱石自身、『吾輩は猫である』でデビューした頃に比べると、褒める評論が少なくなったことは自覚していた。しかし、多少厳しい論調に接しても、それが非難攻撃だとまでは受け止めていなかった。そうした周囲の声に、一喜一憂していては致し方がないと達観していた。

漱石を褒める人が少なくなるのは、逆にいえば、世間がそれだけ漱石という作家の位置を高いものとして認めた証拠だというとらえ方をするようにしていた。

6月下旬から連載をはじめた『虞美人草』は、まだ、あとどのくらい続いてどう決着がついていくか、漱石自身にも明確には予測がつきかねていた。書き終えたら門弟の鈴木三重吉と一緒に旅行するという話を以前からしていたが、どうもその約束を果たせるかどうか、怪しくなってきた。漱石はその旨、三重吉あてに一筆したためておくことにした。

《日々暑い事だ。さて旅行の儀は延引また延引、今月の半頃ならばと思っているが一方では段々考えてみると例の小説がどうも百回以上になりそうだ。短かく切り上げるのは容易だが、自然に背くと調子がとれなくなる。(略)するとことによると君と同伴行脚の栄を辱(かたじけの)うする訳に参らんかも知れぬ。旅行も大事だが虞美人草は胃病よりも大事だからその辺はどうか御勘弁を願いたい。(略)もし自然の進行が長引けばこの年一杯でも原稿紙に向っていなければならない。ああ苦しいかな》

『虞美人草』は漱石が朝日新聞入りして初めての作品であり、何よりも優先し胃の不快感にもめげず、相当の意気込みで取り組んでいるのである。

夕食後、気分転換のためぶらりと本郷界隈を散歩していると、寄席「岩本」に、

「夏目先生著 吾輩ハ猫デアル 松林伯知述」

という看板が出ていて、面食らった。

どうやら、講談の演目として『吾輩は猫である』をやろうとしているようだった。

「あれを講談にするといったって、一体どんなことを弁ずるつもりなのだろう」

思わず首をかしげる漱石先生だった。

■今日の漱石「心の言葉」
群衆は眼中に置かない方が身体の薬です(『書簡』大正5年2月19日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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