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3 夏目漱石 2

今から119 年前の今日、すなわち明治30年(1897)7月31日、熊本から夏期休暇で東京に戻っていた30歳の英語教師である漱石は、根岸の子規庵に正岡子規を訪ねた。

東京・根岸の子規庵入口。子規庵は昭和20年の戦災で消失したが昭和26年に復元され、ありし日の正岡子規の面影を今に伝えている。

東京・根岸の子規庵入口。子規庵は昭和20年の戦災で消失したが昭和26年に復元され、ありし日の正岡子規の面影を今に伝えている。

いつものことで長話に花を咲かせ、遅くなった帰り際、子規は漱石のために、近所の浜田屋という人力車の店に頼み、60銭の代金を前払いして1台の俥を用意してくれた。この使いには、子規の妹の律が出向いたはずだ。

というのも、子規はこの頃、結核菌が背骨をむしばむカリエスを発症しており、ほとんど寝たきりの状態となっている。寺田寅彦が漱石の紹介で子規庵を初めて訪問し、《玄関にある下駄が皆女物で子規らしいのが見えぬのが先ず胸にこたえた》(『根岸庵を訪う記』)と綴るのはこの2年後の出来事だが、この日すでに子規の下駄は玄関に置かれていなかったのではないか。いずれにしろ、漱石は病床にいる子規に別れを告げただろう。そんな漱石を、子規の母堂や妹の律は、子規に代わって玄関まで見送っただろう。そうして漱石はひとり、子規庵の門の外へ出ていく。

その門外に、人力車が待っている。

ところが、いざ人力車に乗り込んで引き上げる段になって、漱石と俥夫の間でトラブルが起こった。俥夫が何か無礼な言動を働いたことから、ちょっとした立ち回りのような展開にもなり、漱石は怒って、この俥夫から子規が前払いした60銭の代金を取り上げ、突き帰した。

子規が用意した人力車に対して漱石がそれだけ激昂したというのは、尋常のことではあるまい。もしかするとその俥夫は、子規の病か、あるいは子規の家に関することで、悪口めいたことを口にしたのかもしれない。

浜田屋の主人が出てきて、漱石に丁重に詫びた。主人は、その後、自ら梶棒を握って漱石を内幸町の貴族院官舎へ送ってくれた。漱石一家は、この休暇中、貴族院官舎にいる鏡子の父・中根重一のもとに滞在していたのだった。

「40銭でよござんす」

浜田屋の主人はそう言って、料金を割り引き、40銭だけを受け取った。漱石の手もとには20銭の金が残った。翌8月1日、漱石は子規に手紙で事の経緯を報じた。

《毎度ながら長座さぞかし御迷惑の事と存じ候。御傭いくだされ候車夫浜田屋主人の希望により解雇、主人自ら梶棒をとって虎の門まで送り届け候。六十銭は小生前の車夫より没収の上さらに四十銭を浜田屋の老翁につかわし候。残金弐拾銭いずれ其内(そのうち)御返上つかまつるべく候。兎に角昨夜門前にての立まわりは一寸(ちょっと)奇観に候いし。御依頼の書籍そのうち御届申しあぐべく候。御北堂様御令妹へよろしく御伝声下さるべく候》

どこか『坊っちゃん』の主人公を連想させる、漱石先生のまっすぐな言動。手紙を受け取った子規も、何がなし気の晴れるような心地を味わっていたのではないだろうか。

■今日の漱石「心の言葉」
余計な不確かのことをお喋りするほど見苦しいことはない。いわんや毒舌をや(『愚見数則』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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