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3 夏目漱石 2

今から104 年前の今日、すなわち明治45年(1912)7月30日、漱石は深い感慨をもってひとつのニュースを受け止めていた。

深夜の午前零時43分、明治天皇が心臓麻痺で崩御していた。午前1時、皇太子嘉仁親王の践祚の式が執り行われ、続いて《明治四十五年七月三十日以降ヲ改メテ大正元年ト為ス》という勅書が出され、元号が大正へと変わった。

漱石が自身の人生の歩みを重ねてきた「明治」という時代が、ここに終焉を迎えた。漱石が深い感慨をもって受け止めるのも当然のことであった。

喪章をつけた漱石の肖像写真。大葬の日の6日後、大正元年9月19日に撮影。神奈川近代文学館所蔵

喪章をつけた漱石の肖像写真。大葬の日の6日後、大正元年9月19日に撮影。神奈川近代文学館所蔵

明治天皇の体調悪化は旧知のことで、7月20日には新聞の号外で、尿毒症のため昏睡状態に陥ったと報じられていた。このとき、当局が隅田川の花火を含む川開きを禁じたことに漱石は違和感を覚えた。

当日の日記に漱石はこう記している。

《川開きの催し差留られたり。天子未だ崩ぜず川開を禁ずるの必要なし。細民これが為に困るもの多からん。当局者の没常識驚くべし。演劇その他の興行もの停止とか停止せぬとかにて騒ぐ有様也。天子の病は万臣の同情に価す。然れども万民の営業直接天子の病気に害を与えざる限りは進行して然るべし。当局これに対して干渉がましき事をなすべきにあらず。もし夫(それ)臣民衷心より遠慮の意あらば営業を勝手に停止するも随意たるは論を待たず。然らずして当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば表向は如何にも皇室に対して礼篤く情深きに似たれども、その実は皇室を恨んで不平を内に蓄うるに異ならず》

何かというと当局や周囲の圧迫で過剰な自粛に縮こまる性向は、今も引き続く日本の悪癖なのかもしれない。それでは却って、庶民の暮しや経済活動に支障が生ずるだけではないかと、漱石は見るのである。

陸軍大将の乃木希典とその妻・清子が殉死したのは、それからひと月余りを経た大正元年(1912)9月13日のことだった。この日は明治天皇大葬の日で、午後7時40分頃、柩をのせた車が青山斎場に向かって宮城を出る際に弔砲を鳴らした。それを合図とするように、乃木夫妻は自刃したのである。

漱石は同時代人として、この殉死をも、ある程度の理解とともに受けとめた。小説『心』の中に、漱石はこんな言葉を綴っている。

《夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。そのとき私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟(ひっきょう)時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました》《御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです》

文中の「私」は、物語の登場人物としての「先生」であるが、そこには漱石自身の気持ちも映し出されていたように思えるのである。

■今日の漱石「心の言葉」
時代後れの人間は東京のような烈しいところには向かない(『虞美人草』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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