今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)7月29日、東京・内幸町の長与胃腸病院に入院中の43歳の漱石は、例によって午前5時に目覚め、日課のようになっている日比谷公園への散歩に出かけた。
入院から40日余り、いったん落ちていた体重も増えてきて、いつ退院してもいいくらいに元気が回復してきていた。漱石はいつもと歩く道筋を変え、折から新築を進めている帝国劇場と警視庁の間を歩いてみるのだった。
この日の午前中は、ちょっと変わった訪問客もあった。雑誌『学生』の記者をしていた西村酔夢。談話筆記のために漱石のもとを訪れたのである。テーマは英語教育についてだった。
漱石はまず、最近の学生の語学力が落ちている原因について、こんな話をした。
自分たちの時代は日本の教育が未成熟なために、地理、歴史、数学などほとんどすべての学科を英語の教科書で学んだ。今は成熟の結果、日本の教育を日本語でやるだけの余裕と設備が整った。自然、英語にふれる機会が減り、相対的に語学力が落ちた。しかし、独立した国家という観点からして、こうした流れは自然なことであり、大切なことである。日本のナショナリティと英語の知識位を交換していいはずはない。
これだけの現状分析と考え方の基本を述べた上で、漱石は、教科書の改良や、教員の養成・研修法などについて、いくつかの具体的な提言をした。
たとえば、中学(当時は5年制)の教科書などは、英国の新聞を活用して、実際に日常生活の中で使用頻度の高い言葉を中心に組み合わせて作るべき、とした。《その代り、むずかしいジヨンソンの『ラセラス』に出て来るような字は全く省いて生徒に無用な脳力を費やさせない様にしてやる》というのである。
この談話はのちに『語学養成法』という題で、2度にわけて雑誌に掲載された。
漱石は、このように談話筆記をとるために自分のもとを訪れてくる若い人に対して、親切に対処していた。そうした仕事で漱石に何度か対面したことのある中村武羅夫(のちの作家・評論家)は、漱石から、
「訪問して談話を取るというのは、なかなか苦しい仕事だね」
と、声をかけられたこともあったという。
午後になると、学生時代からの友人で満鉄総裁となっている中村是公が、見舞いがてら別れを告げにやってきた。3時過ぎに新橋を出る下関行きの急行列車に乗り、満洲へ帰るということだった。
「それじゃ元気で」
「お互いにな」
別れの挨拶を交わすふたりの胸の中に、万感の思いが去来する。
■今日の漱石「心の言葉」
先生ちっと活発に散歩でもしなさらんと、からだを壊して仕舞いますばい(『吾輩は猫である』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
