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3 夏目漱石 2

今から122 年前の今日、すなわち明治27年(1894)7月25日、27歳の漱石は、上野停車場午前7時25分発、前橋行きの汽車に乗り、ひとり群馬の伊香保温泉へ向かった。旅の荷物の中にたくさんの書籍を抱えていたのは、旅宿で読書と物思いにふけることを意図したためだったろう。

汽車を降りたのは高崎か前橋か。そこから目的地の伊香保温泉までは、徒歩で行くか馬車に乗るか、もしくは人力車を雇うことになる。荷物の重さからして、漱石はおそらく人力車にのったのではないだろうか。伊香保温泉へ到着したのは夕刻6時頃だった。

この時期の漱石は、理性と感情が烈しくぶつかり合うような内面的葛藤を抱えていた。生への煩悶、恋への憧れ、将来への不安と希望。そして、ともかくもっと読書して勉強せねばという焦りにも似た思い。それらが入り交じって、なんだかじっとしていられない心持ちだった。波の大小はあれ、青春期に多くの人が体験する葛藤といってもいい。

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伊香保温泉は、草津温泉と並んで群馬を代表する名湯で万葉集にもその名が登場する。傾斜地につくられた石段の両側に、旅館や土産物店、飲食店などが立ち並ぶ。

伊香保に着いた漱石は、はじめ、温泉街の代表的旅宿である小暮旅館を訪れたが、満室だった。ひとり旅の客は「万が一何か事があると嫌だから」と、受け入れるのを拒む宿もあって、なかなか適当な宿所が見つからない。夏とはいえ、だんだんと日が暮れてくる。最後は小暮旅館の番頭に頼み込んで紹介してもらい、ようやく、萩原旅館という宿の、北向きの6畳の部屋に落ちついた。余り上等の宿とは言いがたかったが、他に選択肢はなかった。

夜になると、漱石は淋しさからつい筆をとった。前橋に近い木瀬村にいる友人・小屋保治へ、手紙を書いた。小屋保治はのちに大塚楠緒子と結婚して大塚姓となり、大塚保治の名で知られるようになる人物だが、もともと木瀬村の出身で、このときちょうど帰省中だったのである。

漱石はまずは、自分が伊香保に来ていること、泊まっている宿の場所を告げて、

《小生義今七時二十五分の汽車にて出立午後六時頃当地着、表面のところに止宿つかまつり候》

と書き、次に、旅館の様子を伝える。

《室は北向の六畳にて、兼ねて御話しの山光嵐色は、戸外に出でなくとも坐して掬(きく)すべき有様に少しは満足致し候。しかし浴室などの汚なき事は余程古風過ぎて余り感心つかまつりがたく候》

山に囲まれた豊かな自然環境は客室内にいても味わえるほどで悪くないが、どうやら宿は古めかし過ぎて掃除も行き届いていなかったらしい。さらに続けて、漱石はこう綴っていく。

《大兄御出くださり候わば、いささか不平を慰すべきかと存じ、それのみ待ちあげ候。願わくは至急御出立当地へ向け御出発くだされたく願い上げ候也》

なんのことはない。ひとり読書にふけるのは取りやめ。君が来てくれれば、余り芳しからぬ旅宿のことも、さして気にならなくなる、すぐにこっちへ来てくれないかと、頼んでいるのだ。

温泉街の旅館の者たちに冷たくあしらわれた空しさも手伝って、漱石は何か淋しく、人恋しくなってしまっていた。親しい友と語り合いたい。漱石はそう思っていた。後年、《自分は夏目君の性格や思想なぞを知っている点で、恐らく随一だろう》と語っている大塚保治が相手なら、漱石は腹蔵なく思うところを語ることができたのだろう。

精神的なことばかりではない。朋輩を得て「ひとり旅」という状況が解消されれば、もう少し快適な宿に移ることもできる。もしかすると、漱石はそんなふうにも考えていたのかもしれない。

■今日の漱石「心の言葉」
中へ案内された時、はじめて一人遠くに来た心持がした(『門』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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