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3 夏目漱石 2

今から110 年前の今日、すなわち明治39年(1906)7月24日、39歳の漱石は教え子に宛てて1通の手紙をしたためていた。教え子の身の上を案じ、励ます手紙だった。

手紙の相手は、東京帝国大学を卒業したばかりの中川芳太郎。社会へ出たとたん、ひどく萎縮してしまい右顧左眄(うこさべん)している感のある芳太郎の態度を慮って、漱石はこう書いた。

《学校を卒業して一日のうちに世の中が恐ろしくなったから、これから余程注意を周密にする由(よし)結構に候。しかし周密という意味に上等と下等あり。自己の智力にて出来得る限り考え、自己の感情にて出来得る限り感じ、而して相手と自己とに不都合の破綻なき様にするを上等といい。ただ人を見て泥棒の如く疑い何でもコソコソに先を制する様な事を得意にする、これを下等の周密という。(略)世を恐るるは非なり。生れたる世が恐ろしくては肩身が狭くて生きているのが苦しかるべし。余は君にもっと大胆なれと勧む。世の中を恐るるなとすすむ。自ら反(はん)して直(なお)き、千万人と雖(いえど)もわれ行かん、という気性を養えと勧む》

周密になるのは結構だが、こせこせしてはいけない。世の中を恐れず、もっと大胆になっていい。自ら正しいと信ずる道ならば、たとえ千万人を向こうに回しても、恐れずに進むという気概を養いなさい。そう叱咤激励している。

恩師たる漱石先生からこんな手紙をもらった芳太郎は、どれほど勇気づけられたことだろうか。

漱石は手紙好きだった。門下の森田草平宛ての書簡にも、

《小生は人に手紙をかく事と人から手紙をもらう事が大好きである》

と綴った。電話という文明の利器が西洋から入ってきているものの、まだ十分に行き渡っていないという明治期の日本の社会事情もあるにせよ、漱石はたくさんの手紙を書いた。

現在、中味が把握されて全集に収録されている分だけで、その数は2500通余りに上る。行方がわからないもの、紛失したものも少なくないはずだから、実際にはこの何倍もの数の手紙が書かれたのだろう。実際、漱石の友人の菅虎雄はこんなふうに証言している。

《夏目君の書簡といって今私はあまりたくさん所持していない。これはごく親しかったため、生前その書簡もそんなに大切に保存もしておかなかったためである。これは何も私に限ったことではなく……》(『夏目君の書簡』)

残された手紙の中には、若い門弟たちに宛てた訓戒と示唆に富む宝物のようなものも、多く含まれていた。佐藤春夫や山田風太郎といった後世の文人たちが、漱石書簡集を愛読書として座右に置いた所以である。

とくに山田風太郎は、古本屋に出回った漱石の自筆書簡を入手し、額に入れて自宅応接間に飾るほどだった。筆者も、一度、取材に訪れた山田風太郎邸で現物を見せてもらったことがある。長さ1メートルほどの、巻紙に墨跡くろぐろとしたためられた手紙。読み進めていくと、

《この手紙持参の人は中村蓊(しげる)とて、去年英文科卒業の文学士にてその後東朝記者となりて小生とは朝日社友の間柄に御座候。(略)ちょっと御目にかかり伺いたき事これある由にて、小生へ一封紹介状依頼につき相認(したた)め候。定めて御多忙とは存候えども本人参上の節は何卒御引見下されたく願上候》

署名は「夏目金之助」。名宛は「鴎外先生」で「坐下」という脇付がつく。つまり、漱石の鴎外宛て書簡という珍しいもので、それも、漱石の朝日新聞の同僚である中村蓊本人が鴎外邸を訪問する際に持参すべく書かれた紹介状なのである。

山田風太郎は漱石の息吹にいつもふれていたいがために、入手したこの手紙を額装して飾っていた。漱石書簡には、それだけの魅力がある。

■今日の漱石「心の言葉」
用心は大概人格を下落せしむるものなり(『書簡』明治39年7月24日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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