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3 夏目漱石 2

今から127 年前の今日、すなわち明治22年(1889)7月23日、一高在学中の22歳の漱石は、夏休みを利用してすぐ上の兄・直矩とともに静岡の興津へ赴いた。

直矩は数か月前に喀血し、しばらく病床に伏せっていて、回復期の予後を転地療養して過ごそうと、東京を離れることにした。漱石がそれに付き添った形だった。興津滞在は8月2日まで、11日間に及んだ。

後日、漱石自身が自作の漢詩文集『木屑録(ぼくせつろく)』の中に、

《興津景、清秀穏雅、有君子之風(興津の景は、清秀穏雅にして君子の風有り)》

と綴ったように、興津の景色は美しく気候も穏やかで、おのずから人を引きつけるところが感じられた。静養にはもってこいの場所かと思われた。

ところが、思わぬ事態が待っていた。

現地に、陸軍中将で枢密顧問官の曾我祐準らがやってきて、漱石たちと同じ旅館・水口屋に宿をとったのだ。

旅館側は中将を下にも置かぬ歓待ぶりで、1週間2円という割安の料金で泊まっている漱石や直矩には、まるで居候に対するかのような態度で接してくる。余りの扱いに気分を害した漱石と直矩は、近くの身延屋へ宿替えをする始末だった。

権勢と金がある程度幅をきかせるのは、人の世の常。まあ、それはある程度仕方ないとしても、だからといって他のお客をないがしろにするとは、なんだかおもしろくない話ではないか。身延屋の宿料は1週間3円と5割高の「散在」だったが、夏目兄弟はそれでもよし、としたわけだ。ところが、事はここで終わらなかった。数日のうちに、陸軍中将らはまるで追いかけるように身延屋へ移ってきた。兄弟はまたしても宿替えを強いられるのだった。

こんなドタバタを、帰京後の漱石は、正岡子規あて書簡の中にこう綴っている。

《どうにもこうにも駿河(するが)の国、立ッたり寝たり又興津、清見の浦は清(す)むとても、心はすまぬ浜千鳥、啼(な)くより外はなかりしが・・・》

「駿河」には「為(す)るが」を、「興津」には「起(お)きつ」を、駄洒落のような掛詞としてひっかけて、興津では、立ったり寝たりまた起きたりするような落ち着けない状況で、海の水や景色は清くとも、心はやりきれず啼くほかはなかった、と嘆息するのである。

そんなハプニングがあったとはいえ、病人にはこの転地療養は、なかなか効果があったようだ。直矩は、このあと、昭和6年(1931)、73歳まで生きた。

全部で8人いた漱石先生の兄弟の中で、もっとも長命だった。

■今日の漱石「心の言葉」
無学不徳義にても金あれば世に勢力を有するに至ることを事実に示したる故、国民は窮屈なる徳義を捨て、ただ金をとりて威張らんとするに至りし(『断片』明治34年より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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