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夏目漱石、住み慣れた熊本を引き払って帰京の途につく。【日めくり漱石/7月18日】

3 夏目漱石 2

この年の熊本は、7月上旬から雨模様が続いていた。

16日には大雨がもとでとうとう大洪水に見舞われ、各地で汽車が不通になった。漱石とその家族が4年余にわたって住み暮らした熊本を後にしたのは、そんな大洪水の直後、今から116 年前の今日、すなわち明治33年(1900)7月18日のことだった。

相変わらず鉄路はところどころで寸断されており、一行は汽車を降りては歩き、歩いては汽車に乗るという苦労をしながら東京を目指したのであった。

漱石はこのとき、33歳。第1回の文部省給費留学生に選ばれ、英国へ赴くことが決まっていた。9月の出発を控え、帰京して準備を整える段取りとなっていた。

熊本における漱石一家の最後の住まいとなったのは、市内北千反畑(きたせんだんばた)の借家だった。明治33年3月下旬に移り住み、4か月弱を過ごした。写真・神奈川近代文学館所蔵

熊本における漱石一家の最後の住まいとなったのは、市内北千反畑(きたせんだんばた)の借家だった。明治33年3月下旬に移り住み、4か月弱を過ごした。写真・神奈川近代文学館所蔵

帰京に際し、遠いところを家財道具を運ぶのも大変だというので、漱石夫妻は一切合切を懇意にしていた人たちへの置き土産にすることにした。

松山時代から愛用していた、足と周囲が竹で作られた机も、知人に譲った。2年前から飼っていた西洋犬も、同僚の神谷豊太郎に引き取ってもらった。

漱石はこの犬をとても可愛がっていた。内坪井の借家にいた頃によそからもらった大きな犬で、そのまま熊本における最後の住まいとなった北千反畑(きたせんだんばた)の借家にも連れてきていた。

家政婦や書生にも可愛がられていて、家の者にはなついているが通行人などにはよく吠える犬だった。内坪井にいた頃、あまり吠えるので、向かいの荒物屋の客足が遠のいたと非難を持ち込まれたこともあった。漱石は平気な顔で、

「犬なんてものは利口なもので、怪しと見るからこそ吠えるのであって、家のものなどや人相のいいものには吠えるはずのものではない」

などと言っていた。

ところが、北千反畑で、さらに一悶着持ち上がった。よりによって、近所に住む巡査の細君に噛みついてしまったのである。

さすがの漱石も、これには弁解のしようもないかと思いきや、この細君は漱石の家の門前の空地にいつもこっそりゴミを捨てにきていたことを家政婦が知っていて、漱石の耳に入れた。漱石はそんな怪しいことをするから犬も吠えたり噛んだりするのだと言ってやり返し、とうとう愛犬をかばい通したのだった。

後日、漱石先生本人が謡の稽古で遅くなり深夜帰宅したとき、この犬にさんざん吠えつかれてしまったのは、悲喜こもごもの思いにまかせぬ人生の一幕といったところか。

いずれにしろ、漱石というと猫との結びつきばかりクローズアップされるところがあるが、どうしてどうして、かなりの犬好きだったのである。

その犬とも別れ、漱石は東京での準備を経て、遠くイギリスへと旅立ってゆこうとしている--。

■今日の漱石「心の言葉」

ひとまず家族とりまとめ東上の上、九月頃西征の途に上り候(『書簡』明治33年6月17日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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