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3 夏目漱石 2

今から109 年前の今日、すなわち明治40年(1907)7月14日、40歳の漱石のもとに門下生で物理学者の寺田寅彦があわてた様子でやってきた。漱石の書斎に通されるや否や、寅彦は持参した読売新聞の、ある記事を漱石に指し示した。そこには、「一本軌道の電車」という見出しが付されていた。

漱石が読み進めていくと、その中身は、オーストリアのブレナンという科学者が発明した単軌鉄道(モノレール)を紹介している。この新発明の鉄道は、従来2本だった線路を1本として摩擦を軽減したため、より早い速度で走行ができる。その際、車体のバランスの保持が問題となるが、独楽(こま)の回転を応用したジャイロスコープという装置を使って課題を克服している。そんな内容だった。

寅彦は1週間ほど前、同じようなテーマに関する読み物記事を、漱石を通じて東京朝日新聞に提供していた。早くしないと時期後れになる恐れがあることも、伝えていた。

読売新聞に先を越されたのは残念だったが、それ以上に、このことに気づかず、朝日が寅彦の記事を載せて二番煎じのようになってしまうのが憚られた。のみならず、下手をすると、寅彦自身が読売新聞を見てから、同じような記事を書いたと誤解される恐れさえあった。

漱石は早速、朝日新聞にことの次第を報知した。

寅彦の随筆『ラムプのいろいろ』が朝日に掲載されたのはこの翌日。これもすでに提出済みの原稿だったから、漱石の進言によって、急遽、差し替えがなされたのかもしれない。いずれにしろ、科学随筆の名手としての寅彦の歩みが、この頃から始まった。漱石先生、編集プロデューサーとしても、なかなかの辣腕ぶりなのだった。

漱石自身、科学については興味もあり、理解度が高かった。寺田寅彦が回想録『夏目先生の追憶』の中でこんな証言をしている。

《何か他の実験の話をしろというので、偶然その頃読んでいたニコルスという学者の「光圧の測定」に関する実験の話をした。それをたった一辺聞いただけで、すっかり要領を呑込んで書いたのが「野々宮さん」の実験室の光景である。聞いただけで見たことのない実験がかなりリアルに描かれているのである。これも日本の文学者には珍しいと思う。

これに限らず一般科学に対しては深い興味をもっていて、とくに科学の方法論的方面の話をするのを喜ばれた》

小説『三四郎』の中の野々宮さんの実験は、寅彦から聞いた話だけをもとに、描き出したものだったのである。

それにしても、漱石と寅彦の師弟関係は長い。漱石がまだイギリスに留学する前、熊本の第五高等学校で教鞭をとっていた頃の教え子のひとりが寅彦なのである。以降、寅彦は社会人となってもずっと漱石を師と仰いでいる。

寅彦には、熊本時代の漱石を詠んだこんな短歌もある。

《講壇の隅にのせおくニツケルの袂時計を貴しと見き》

《春寒き午前七時の課外講義オセロを読みしその頃の君》

寅彦がいかに漱石を慕っていたか。その思いが三十一文字の端々から匂い立ってくる。

■今日の漱石「心の言葉」
受売りをすべき筈のものではないのです(『私の個人主義』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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