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3 夏目漱石 2

今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)7月6日は、晴れと曇りが交錯するはっきりしない天気だった。長与胃腸病院に入院中の43歳の漱石が病室の窓から見上げる空も、晴れの青と曇の白が帯状に交差していた。

漱石は、退屈しのぎに、上京してまもないという付き添いの看護婦と会話を交わした。

看護婦にどこから来たのか尋ねると、長野県の小県(ちいさがた)だという答えが返ってきた。上田から3里(約12キロ)ほど先の田中という駅に親が勤めている、という話だった。

生まれは新潟だという。そう言われると、彼女は米飯を湯漬にして呑み込むようにして食べている。漱石が「まずいのか?」と訊くと、間髪を入れずに「まずい」という。「どこか体でも悪いのかね」と漱石が重ねて訊くと、「いいえ」とかぶりを振る。

つまりは、味そのものの問題なのだ。自分が普段当たり前のように食べている東京の米と、米どころともいわれる越後あたりの米とは、そんなに味が違うのだろうかと、漱石は改めて思うのだった。

「病院の患者さんが段々によくなって、退院していってくれるのは嬉しいですね」

看護婦はそんなことも言った。麻布に住んでいた兄が2年前に亡くなり、あとには未亡人と幼児が残されている。数日前には、その兄の法事に行ってきたという。

看護婦が用事で立ち去ったあと、漱石はふと、そういえば昨夜は中野善右衛門はこなかったな、と思った。

盛岡出身のこの青年は、早稲田の銭湯で漱石を見かけたことがあると言って、何日か前、突然に訪ねてきた。その後、連日のように病院にやってきては、盛岡で雑貨商を営んでいること、木綿屋へ奉公に出ていたこと、自転車から落ちて鼓膜を破ったことやらを話した。

さらには、「人間が偉くなりたいと思うのは本能でしょうか」「神はあるでしょうか」などと哲学的な問いかけをしてくる。漱石はそのたびに真面目に対応し、「本能じゃないが本能に近い共有性だろう」と答えたり、聖書の話をしたのだった。

その後、鏡子が見舞いがてら、絽の袴が出来上がってきたからと言って持参し、漱石に見せた。手にとってみると生地が今ひとつざらざらした感触だったが、少し離れたところから見るとどっしりした印象で悪くはなかった。漱石は満足げに頷いた。

ところで、胃潰瘍治療のための蒟蒻(こんにゃく)湿布は、この日で6日目を迎えていた。はじめ余りの熱さから夥(おびただ)しい痛みを感じさせたこの療法にも慣れてきて、だいぶ我慢できるようになってきていた。ただ皮膚がすれて紫色に変色し、火脹れのあとは水を含んで腫れ上がっていた。そのため、ついつい姿勢が猫背になってしまうのだった。

漱石は自身の治療や療養生活について理解を深めるため、この病院の副院長である杉本東造の口述による『胃腸の養生法』という本を買ってきてもらい読むことにした。

なにごとも無理解のままには放っておけぬ、知的好奇心の旺盛な漱石先生だった。

■今日の漱石「心の言葉」
久しくパンだけで我慢していた彼の口には、水っぽい米の味も一種の新らしみであった(『明暗』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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