今からちょうど100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)7月4日の午後、漱石は伊達家の第2回入札会に出かけた。伊達政宗を祖とする東北一の旧大名である伊達家所有の書画骨董など500 点余りを展示公開し、入札によって販売するという催しだった。
漱石がここに出かけたのは、漱石の著作の装幀なども手がける画家の津田青楓が切符を送ってくれたためだった。

津田青楓が装幀し、大正4年に発行された『道草』は、漱石の自伝的色彩の濃い小説といわれている。神奈川近代文学館所蔵
会は大勢の人出で賑わっていた。
第1回の伊達家入札会は、すでに5月に催されていた。これが旧大名家が公然と催した最初の入札会だった。以降、同様のことが次々と行われ、多くの美術品や茶道具が旧大名から新しい富裕層のもとへ移動することになった。
これも時流のなせるわざ、と言うべきか。
2度にわたる伊達家入札会での取引金額は150 万円にも上った。値のつき方には専門家から見るとかなり偏ったところもあり、成り上がりの富裕層の趣味の悪さを嘆く声も聞かれたという。
漱石の一番印象に残ったのは、八言四句の漢詩を3行に綴った一休の書だった。だが、それは必ずしもいい意味ではなかった。
墨跡は乱雑で一休筆という以外は書としての本質的な魅力に乏しいように感じ、漱石は青楓への手紙の中にも、
《何で懸物などにする価値があるのでしょう》
と綴った。一休という名前だけで無闇にありがたがる茶人が多かったことへの反発もあったのだろうか。
漱石は同じ禅僧でも、闊達な中にやさしさと風格を持つ良寛の書をもっとも好んでいた。いつぞやは、良寛の書をなんとか手に入れたいと新潟の知人(漱石の主治医だった森成麟造)に頼み込み、代価を払うのはもちろんのこと、関係者が漱石の書を所望するのであれば恥を忍んで進呈するとして、手紙の中にこんなふうに綴っている。
《良寛を得る喜びに比ぶれば悪筆で恥をさらす位はいくらでも辛抱つかまつるべく候》
ちなみに、漱石は絵画を鑑賞する場合でも、描いた画家の名前に寄りかかって観るようなやり方はしなかった。自身の審美眼だけを頼りに、虚心に絵と向き合った。
あとでこの一休の書が何千円という高値で売れたと聞き、漱石先生は思わず嘆声を発したのだった。
■今日の漱石「心の言葉」
書を見ると人格がわかる(『文芸の哲学的基礎』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。
