まだ大学生の漱石が、兄の直矩(なおかた)に誘われて東京・銀座の歌舞伎座に出かけたのは、大学が休みに入ってまもない明治24年(1891)6月30日、つまり今から125 年前の今日のことだった。
漱石には4人の兄がいた。このうち4番目の久吉は、漱石が生まれる以前、4歳で夭逝している。残り3人の兄は揃ってなかなかの道楽者だったようで、漱石は『僕の昔』と題する談話の中で、
《父親(おやじ)は馬場下町の名主で小兵衛といった(略)相模屋という大きな質屋と酒屋との間の長屋は僕の家の長屋で、あの自分に玄関を作れるのは名主にだけは許されていたから、名主一名お玄関様という奇特な尊称を父親は頂戴してさかんに威張っていたんだろう。家は明治十四五年頃まであったのだが、兄哥等(あにきら)が道楽者でさんざんにつかって家なんかは人手に渡して仕舞ったのだ》
と述べている。
その兄のひとりが、三兄の直矩だった。
南風の強い曇天の中、歌舞伎座に着いたのは午前10時半頃。漱石の同級生の菊池謙二郎も知人とともにやってきて、同じ桝席に連れ立って座った。はじめに観劇したのは、福地桜痴作、九代目市川団十郎主演の『春日局』だった。
周囲に目をやると、ひとつ隔てた向こうの枡席に落語家の三遊亭円遊の姿があった。円遊は大きな鼻と痘痕面(あばたづら)が特徴で、漱石はそれを見ながら、
「自分の痘痕とどちらが数が多いだろう」
などと、とりとめのないことを思ったりするのだった。
青年期の自意識から、漱石は自分の容貌も必要以上に気になり、とくに鼻に残る痘痕を気にかけていたのである。
この日は、他に『幡随長兵衛』などの演目もあり、その序幕に演じられる『公平法問諍(きんぴらほうもんあらそい)』は落語を見ているようで面白かった。
だが、24歳という年齢の若さや、大学で英文学を勉強しはじめたところという状況もあってか、漱石はいまひとつ歌舞伎に魅力を感じられなかった。舞台そっちのけでやたらとお菓子をつまんだり、幕間の弁当を食べ過ぎたりしたのがたたり、観劇中に腹痛に苦しむおまけまでついた。
帰り道で、漱石が八つ当たり気味に、
「1円以上の価値はない」
と呟くと、直矩はさらりと受け流し、
「田舎者が初めて寄席に行っても、その面白さがわからないのと一緒さ」
と応じた。
漱石は寄席は大好きだった。正岡子規と会ってすぐに意気投合したのも、寄席通いという共通の趣味があったためといわれる。それを知っていて、兄は急所をついている。この言葉には完全に一本とられた形の、若き漱石だった。
■今日の漱石「心の言葉」
若いあなたは動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かにぶつかりたいのでしょう(『心』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。
