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3 夏目漱石 2

今から109 年前の今日、すなわち明治40年(1907)6月21日、40歳の漱石は東京・早稲田南町の漱石山房(漱石の自宅)の書斎にこもって文机に向かっていた。

その山房の前に、漱石門下の森田草平(もりた・そうへい)がやってきて、思わず足を止めた。門口に「面会謝絶」の貼り札が掲げられていた。漱石はあいにく朝日新聞入社後、初の新聞連載となる小説『虞美人草』の執筆に集中するため、面会を断っている最中だったのである。

余り自慢できる用向きでなく、あえて邪魔をするのも憚られ、草平は貼り札の前で「う~ん」と唸ったきり引き上げていった。

その少し後に、生田長江(いくた・ちょうこう)が「貼り札」にもめげずに漱石の前に座っていたのは、草平の窮状を見かねての行動だった。長江と草平は東京帝国大学の同期生、卒業後も頻繁に行き来していた。

漱石は結局、草平に貸すべく、長江へ20円の金を託した。

『文学評論』の刊行準備に当たって、漱石は弟子の森田草平に整理の仕事を依頼した。草平にとって、幾ばくかでも収入になればという漱石の配慮がうかがえる。神奈川近代文学館所蔵

『文学評論』の刊行準備に当たって、漱石は弟子の森田草平に整理の仕事を依頼した。草平にとって、幾ばくかでも収入になればという漱石の配慮がうかがえる。神奈川近代文学館所蔵

漱石自身、草平の暮らし向きのことは気にかけていて、この1月以降、『子規遺稿』集の校正の仕事を紹介したり、漱石の大学での講義をもとにした『文学評論』の刊行に関する整理の仕事を頼んだりしてきていた。

そんな経緯があるので、漱石から金を受け取るに当たって長江は、「飲んでしまって金がなくなったのではありません」と言い訳のように付け加えた。

逆にいえば、怪しい。草平と長江、ふたりして飲んで使ってしまった金も、相応の額にのぼったのかもしれない。

ひと月ほど後、草平が疫病で女児を亡くした。話を聞きつけた漱石は、心を傷め、早速いくらかの香典を包もうかと思った。が、妻の鏡子に、

「それならいっそ、前に用立てたお金を差し上げてお香典代わりにしたらどうでしょう」

と進言され、なるほどと頷く。

この2年後、東京朝日新聞社に校正係として入社した石川啄木の月給が25円。草平に用立てた20円というのは、かなりまとまった金額だった。いくらかの香典を包んで、引き続き恩師への20円の借金が残るより、「お香典の代わりだよ」と言って借金を清算してあげた方が、草平にとって、心の負担も含め、実際的にありがたいことに違いなかった。

だったら、そうしようかと、夫婦の相談はすぐにまとまる。

漱石は草平あてにこんな手紙を書いた。

《御不幸御気の毒の至にたえず。実は御悔みに上がろうと思うがオッカサンや奥さんで却って御迷惑と思って控えている。先日生田君の取りに来たものは些少ながら香奠(こうでん)として差上るからそのつもりにて御使用下さい。(略)虞美人草は昨今両日共休業。もし御閑(おひま)ならいらっしゃい》

取り込んでいるところに自分が出かけていって、却って草平の家族に負担な思いをさせるといけないので、お悔やみは遠慮している。その代わり、草平の方で何か話でもしたい気持ちなら、仕事の邪魔にはならないから出かけておいで。

そう語りかけている漱石だった。

■今日の漱石「心の言葉」
何もしないで生きていようというのは横着な了簡だからね(『心』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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