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3 夏目漱石 2

今から109 年前の今日、つまり明治40年(1907)6月13日、40歳の漱石は、自邸の門口に「面会謝絶」の貼り札を掲げた。東京朝日新聞社入りして初めての仕事となる小説『虞美人草』の執筆に専念するためだった。

新聞連載が始まるまで、あと10日しかない。これまでに準備は進めてきているものの、長男の出生といった出来事も重なり、嬉しいこととはいえ時間がとられた。改めて、「集中して机に向かわねば」と、いつになくちょっとあせり気味の漱石だった。

この頃、時の宰相・西園寺公望(さいおんじ・きんもち)から第1回の文士招待会(6月17日開催、のちに「雨声会」と命名)の招待状が届いたのに対して、欠席の返事を送ったのも、同じ理由からだった。漱石は葉書に招待を辞退する旨を記し、こんな句をも書き添えた。

《時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半ばに出かねたり》

文士たる自分を血を吐いても鳴き続けるホトトギスに擬しながら、今は厠(かわや/トイレ)で用を足している最中みたいなものなので、ちょっと出向きかねます、というのであった。権力の押しつけを嫌う漱石の反骨も、ひそかに匂ってくる一句である。

漱石がこの葉書を書いているとき、たまたま用事があって、鏡子の妹婿で建築家の鈴木禎次がきていた。鈴木禎次はちょっと驚いて、こんなふうに言った。

「相手は西園寺侯ですよ。そのご招待をお断りするのに葉書というのは、あんまりじゃありませんか」

断るのはやむを得ないとして、せめて封書にするべきではないかとの意見だった。漱石はいっかな平気なもので、

「なあに、相手が誰だろうと、これで用が足りるんだからたくさんだよ」

そう応じて、そのままその葉書を投函してしまった。

「面会謝絶」の貼り札をしてあるにも関わらず、無視して上がり込んでくる遠慮会釈のない門弟たちも多く、漱石は閉口した。それでももちろん、6月23日には、東西の朝日新聞紙上で『虞美人草』の連載がスタートしていく。その一節。

《春はものの句になり易(やす)き京の町を、七条から一条まで横に貫いて、烟(けむ)る柳の間から、温(ぬく)き水打つ白き布を、高野川の碩(かわら)に数え尽くして、長々と北にうねる路を、大方は二里余りも来たら、山は自ずから左右に逼(せま)って、脚下に奔(はし)る潺湲(せんかん)の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る》

錦繍の文体、京都と東京、ふたつの舞台を行き来しながら展開していく物語。世間は、たちまち虞美人草人気にわき返った。

それにあやかろうと、三越呉服店が虞美人草浴衣地(浴衣用の生地)を、貴金属の玉宝堂が虞美人草指輪を売り出したことは、以前にもちょっとふれた。今に当てはめれば、キャラクターグッズ販売みたいなものとも言えようか。世間の流行と商売人の商魂のたくましさには、漱石先生もちょっと驚いたことだろう。

■今日の漱石「心の言葉」
事をなさんとならば、時と場合と相手と、この三者を見抜かないといけない(『愚見数則』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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