今から120 年前の今日、すなわち明治29年(1896)6月9日、夏目漱石は結婚式を挙げた。花嫁は、見合いをして東京から迎えた。貴族院書記官長をつとめる中根重一の長女・鏡子である。
広島・福山で生まれ、父の仕事の関係で5年ほど新潟で過ごし、その後は東京で育った。年は数えで20歳(満19歳)。漱石より10歳年下。結婚式の会場は、熊本市下通町(通称・光琳寺町)にある漱石の自宅離れの6畳間だった。
この家は、漱石が熊本市内を探し回って、ひと月前、ようやく見つけた借家だった。花嫁の父たる中根重一から、
「あんまり汚い家では、若い娘がいやがるかもしれない」
と注文をつけられたため、漱石は慌てて家探しをし、引っ越しをしたのである。
間取りは、玄関に続いて10畳、6畳の部屋、4畳の茶の間、湯殿と板蔵もついていて、他に、6畳と2畳の離れがあった。家賃は8円。庭には青桐と椋の木が植えられていた。
漱石は、中根重一に新居を見つけたことを報告し、
「なかなかいいところはないが、亭主の私でさえそれで辛抱するのだから、細君もそれで辛抱してくれなければ困る」
と付言していた。
実はこの家は、旧熊本藩の家老か誰かの妾宅だったらしい。しかも、嘘か真か、その妾が他の男と通じたために殺されたとの噂もあった。あまり気持ちのいい噂ではないから敬遠されて、市内の借家が払底している中でも、空き家となって残っていた節がある。
わずか3か月後には、ここから熊本市合羽町へと引っ越している辺り、漱石の中にも、余りいい気持ちの家ではないが、当座とにかくの間に合わせ、という考えがあったのかもしれない。
結婚式では、漱石は暑さをこらえて冬用のフロックコートを着用していた。一方の鏡子は、夏の振袖で畏(かしこ)まっている。
親族の出席者は、鏡子の父親の中根重一ひとり。三三九度のお酌をしながら仲人役も兼ねるのは、東京から鏡子についてきた老女中だった。
しかも、三つ組であるべき三三九度の盃が、上か下かがひとつ足りなくて、二つしかない。婆やと俥夫が台所で働いたかと思うと、式に列席する客に早変わりするのも、傍(はた)から見れば可笑(おか)しな光景だった。

漱石のもとに届けられた、井上廉による「御婚礼式」。結婚式の準備や進め方について事細かに記されたこの書類を見て、漱石は悲鳴を上げ、「どうか略式で勘弁してもらいたい」と申し出た。写真/神奈川近代文学館所蔵
名義上の媒酌人は、中根重一が旧知の地位ある人に頼んでいた。内閣の恩給局長をしていた井上廉(れん)という人物だった。この人は故実に通じていて、古式にのっとった目録儀式などを書いた「御婚礼式」という文書をつくって中根の家へ送ってきた。そこには結婚式における座敷飾りのこと、着座の次第および式三献(しきさんこん)、色直し、さらには岩田帯は足利将軍がどうしたこうしたとか、出典その他の故事来歴が詳細にしたためられていた。
中根重一がこれをそのまま漱石に送ったところ、もともと格式ばったことの苦手な漱石はびっくり仰天して、
「どうか一番手数のかからない略式で勘弁していただきたい」
と願い出た。そんな経緯があって、こんな形の結婚式となっていたのだった。
もちろん、賑やかな披露宴などもない。あとで仕出屋の勘定書を見ると、婆やと俥夫の分も含め、しめて七円五十銭。これが漱石夫妻の、小さな小さな結婚式にかかった総費用であった。
■今日の漱石「心の言葉」
形式だけ美事(みごと)だって面倒なばかりだから(『三四郎』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。
