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夏目漱石、老能楽師を相手に聞き上手ぶりを発揮する。【日めくり漱石/6月7日】

2 夏目漱石

今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)6月7日、夏目漱石は宝生流能楽師の宝生新(ほうしょう・しん)の居宅を訪問した。

宝生新は、漱石の謡の先生でワキ方の名人。端正な顔だちと美しい声で人気を博した。性格的には大雑把で、稽古日の約束などをすっぽかすこともある半面、他の師匠にありがちな小うるさいことを言わず、月謝も割合と安くしてくれていた。漱石に小犬をくれたりもした。

この日の漱石は、そんな師匠から謡曲「隅田川」を習った。

宝生新の家には、少し前から藤野漸という老能楽師が逗留して、新版の謡本の校正をしていた。聞けば、この老人は昔、あるお屋敷の留守居役をつとめていたとの話だった。お役目柄、始終、御馳走の席にも出ていたのだが、当時は客10人について盃が4つくらいしか用意されていない。そのため、主人役はいつも客人の間を盃をもらって歩かなければならず、酒量がふえて大変だった。そんなふうに語るのだった。

江戸と隣り合わせに地続きでつながっている明治という時代だからこそ聞ける、証言であった。

老人の話は、さらに、渋沢栄一や雨宮敬次郎といった実業家たちのことにも及んだ。老人が旧知の者から伝え聞くところでは、彼らは花札をやり出すと2日も徹夜する。大きく負けてくるとムキになって、いきり出してきて、用があって呼び出してもまとまりのある話ができなくなる者が多い。が、雨宮敬次郎だけは他と異なり、いつも平然として平常の如く話ができる--。

そこまで花札に入れ込むあたり、開化期の実業家というのは、ある種、勝負師のようなところもあったのだろう。とくに雨宮敬次郎は、「鉄道王」のほかに「投機界の魔王」という異名も冠されていた。

雨宮敬次郎(1846〜1911)

雨宮敬次郎(1846〜1911)

当時まだ徳田秋江と名乗っていた近松秋江が、漱石山房(早稲田南町の漱石の自宅)を訪れ、あれこれの体験談を語り聞かせたのもこの日だった。秋江はこの前年、書簡体の小説『別れたる妻に送る手紙』を発表し作家として認知されるようになっていた。漱石とはそれ以前、秋江が批評家として読売新聞に『文壇無駄話』を書いていた頃からの旧知の仲であった。

漱石は秋江の語る姦通事件の話を、面白がって聞いた。面白い話をするのは、もちろん語り手の持っている材料が第一だが、漱石にはそれを聞き出す「聞き上手」のところがあった。若い門弟たちも漱石から話を聞くこと以上に、漱石に話を聞いてもらいたくて山房に集っていた感がある。

後年、秋江は漱石の前で語った素材を、『別れたる妻に送る手紙』の続篇として『執着』『疑惑』『うつり香』といった私小説に仕上げていく。この日、面白がって話を聞き出してくれた漱石先生の態度が、ひとつの力づけとして作用していた面もあったのかもしれない。

■今日の漱石「心の言葉」
耳も八丁、手も八丁とは君のことだ(『吾輩は猫である』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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