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3 夏目漱石

今から108 年前の今日、すなわち明治41年(1908)6月6日、漱石は、東京・上野の精養軒で開かれた二葉亭四迷(ふたばてい・しめい、本名・長谷川辰之助)の壮行会に出席した。『浮雲』『其面影』などの小説作品の筆者としても名高い四迷だが、今回は朝日新聞のロシア特派員として、ロシアの首都ペテルブルグ(現・レニングラード)に赴くことになっていた。

四迷自身、必ずしも小説書きという身分を好んでいなかった。少年期は陸軍大将に憧れ、近眼のため陸軍士官学校の受験に失敗してのちは、せめて国際舞台で外交的な仕事に携わりたいという思いを温め続けていた。こんなふうにも語っていた。

「文学はどうも真剣になれない。抜き身と抜き身と振り上げて、やり損なえば生命にかかわる、というような気にはどうしてもなれない」

この点、立場は似ているようで、漱石とは資質や認識が異なる。漱石は、弟子の鈴木三重吉にあててこんな手紙を書いている。

《僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に、一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士の如き烈(はげ)しい精神で文学をやってみたい。それでないと何だか難をすてて易(えき)につき劇(げき)を厭(いと)うて閑(かん)に走る、いわゆる腰抜文学者のような気がしてならん》(明治39年10月26日付)

ユーモアや笑いが人を救うこともある。それは立派な仕事。それを続ける一方で、人間や社会の深遠に切り込んでいくような作品を、身命を賭して書いていく。飽くまで筆一本での闘いに邁進していこうとする漱石先生なのである。

この少し前にも、漱石は四迷と午餐(ごさん)をともにしていた。四迷のロシア行き内定を受けて大阪朝日新聞主筆の鳥居素川(とりい・そせん)が上京し、3人で神田明神下にある鰻料理の「神田川」の座敷に繰り込み、ゆったりと会食したのだった。漱石はこの会食の情景を、のちの回想譚にこう綴っている。

《神田川では、満洲へ旅行した話やら、露西亜(ロシア)人に捕まって牢へ打ち込まれた話をしていた。それから、現今の露西亜文壇の趨勢(すうせい)の絶えず変っているありさまやら、知名の文学者の名やら(略)、日本の小説の売れない事やら、露西亜へ行ったら、日本人の短篇を露語(ロシア語)に訳して見たいという希望やら、いろいろ述べた。何しろ三人寝そべって、二三時間暮していたのだから、随分ゆっくり話も出来た》(『長谷川君と余』)

二葉亭四迷は、翌年、そのロシア赴任からの帰国途中で客死することになる。つまり、鳥居素川を含む3人の顔合わせとしては、これが忘れられない「最期の午餐」となったのだ。

ふと、漱石が日記に書きつけた《命は食にあり》の言葉を思い起こす。必ずや死ぬ身であればこそ、一回の昼飯たりとも、あだやおろそかにはできない。

鬼平先生こと、時代小説家の池波正太郎も、同じような姿勢を貫いていた。食にこだわっても、いたずらに贅に流れることはなく、折にふれ死を意識する人生観こそを不可欠の薬味としていた。たとえ、小間切れ肉一片を口にするにも、大切に、おいしく食べる。

「死ぬるために食うのだから、念をいれなくてはならないのである」

そう語っていた。漱石先生の精神と、相通ずるものを感じる。

■今日の漱石「心の言葉」
覚悟をせねばならぬ。勤皇の志士以上の覚悟をせねばならぬ。斃(たお)るる覚悟をせねばならぬ(『野分』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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