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3 夏目漱石 2

今から109 年前の今日、すなわち明治40年(1907)6月5日、漱石と鏡子の間に5番目の子供が生まれた。

取り上げたお産婆さんから「男の子ですよ」と告げられ、漱石は満面の笑みで「そうか、そうか」と大きく頷いた。上の4人はみな女の子だったので、待望の長男誕生だった。漱石は、まもなく学校から帰宅した長女の筆子にも、

「男の子が生まれたぞ」

と言って手離しで喜んで見せるのだった。

知らせを聞いた門弟の鈴木三重吉と小宮豊隆は、祝いにと、尾頭付きの大きな鯛を届けてきた。上機嫌の漱石は、この鯛をもらったことから、一瞬、名前を鯛一としようかとも考えた。が、「待て待て」と思い直し、気分を落ち着けて、紙にあれこれの字を書き並べて「純」の字を選び、純一と名づけることにした。一本気で純粋を重んじる性格の、漱石先生らしい文字選びだった。

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おめでたい時には「鯛の尾頭つき」というのは、古来からの日本の風習。待望の長男誕生を喜ぶ夏目家には、恰好の届け物であっただろう。

漱石の7人の子供たちの名前を、ここで改めて列記しておこう。

長女・筆子、次女・恒子、三女・栄子、四女・愛子、長男・純一、次男・伸六、五女・ひな子。いずれも、個性重視というよりは、割合とオーソッドクスで、それだけに時が経過しても余り古めかしさは感じさせない名づけと言えそうだ。

それはたとえば、同じ明治の文豪・森鴎外と比較すると、より一層際立つかもしれない。鴎外は子供の名前がそのまま欧米でも通じやすいように、西洋人の名前と音が重なるものにしようと意図した。その結果、長男は於菟(おと[=オットー])、長女は茉莉(まり[=マリー])、次男は不律(ふりつ[=フリッツ])、次女は杏奴(あんぬ[=アンヌ])、三男は類(るい[=ルイ])と名づけた。漢字の字面からも、どこか洗練されたエキゾチックなものを感じさせる。鴎外はさりげない名前より、個性を前面に押し出している。

小説中の登場人物についても、漱石は、いつの頃からか、余り奇をてらわず、わかりやすい普通の名前を選ぶ方がいいと考えるようになっていた。明治41年(1908)10月21日の『国民新聞』にも、次のような談話筆記を載せている。

《こういう人物にはこういう名でなければならぬと言うような、所謂(いわゆる)据(す)わりのいい名というものは、なかなか無いものだ。早い話が自分の子供の名を附ける場合でも、矢張(やはり)これならばというような名は、容易に附けえられない。このごろは、なるべく判りやすい名を附けるようにしている。(略)やかましい名は嫌いだ》(『小説中の人名』)

処女作『吾輩は猫である』の中には、珍野苦沙弥(ちんの・くしゃみ)とか迷亭(めいてい)、八木独仙(やぎ・どくせん)といった風変わりな名前の人物が登場し、これが作風ともマッチして物語の味付けともなっているわけだが、漱石の好みは次第にそうした命名からは離れていったのである。

無用な力みが抜けて、自然体に返ったという印象。そこには、やがて「則天去私」へと至る漱石の人生観の熟成をも感じとることができるのかもしれない。

■今日の漱石「心の言葉」
これほどお目出たいことはないじゃありませんか、ねえ貴方(あなた)(『行人』より)

 

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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